あのひとの腕の中で俺は眠る。
不思議なくらい深い眠りにつけるあの腕の中はもう俺にとってはなくてはならない世界で、今夜行くよというメッセージの送信を確認して仕事場を後にした。
すでに階下に到着していたタクシーに乗り込み行き先を告げると、タクシーは坂道をゆっくりと上り地上へと滑り込む。
真夜中だというのにきらきらしいネオンの光が眩しい街を抜けた頃、ポケットの中のスマートフォンが小刻みに震えた。
「わかりました。」
いつもの素っ気ない返事に安心して俺はつい口元を緩ませる。
あのひとに初めて会ったのは友人が主催するパーティー会場だった。
わりとこじんまりとしたその店で働くスタッフの一人で、物静かに微笑みながら人の波を澱みなくスマートに動くあの人に俺は一瞬で目を奪われていた。
周りに群がる女の子たちを適当にあしらいながら、目の端ではあの人を追っていたんだ。
なぜなのかはわからない。
細いフレームの眼鏡の下の瞳が言いようもないほどに深い慈愛に満ちていて、かと思えば妖艶にも見えたせいなのか。
信じられないくらい仕事が立て込んでいて、ベッドに入っても虚な眠りしか訪れない苛立ちを密かに抱えていた俺は、引き寄せられるように空のグラスを持ってあのひとのそばへ近づいて行った。
ーーこのあと、時間ありませんか?
湛えていた静かな微笑みが一瞬きょとんと崩れたが、すぐに元通りの笑みを俺に向けると、
ーーございますよ。
短く言ってワインを湛えたグラスを差し出した。
ーーありがとう。
グラスを受け取る時にさっき携帯番号を殴り書きしたペーパータオルをそっと握らせて、素知らぬふりで戻った俺は再び女の子たちに取り囲まれた。
ーーきっとあのひとなら…。
あのときの俺は必死だったのかもしれない。
誰かに縋りたかったんだ。
言いしれぬプレッシャーが常に自分を取り巻く世界からひと時解き離れて、何者でもないただの『俺』を無条件で受け止めてくれる、聖母マリアのような存在がほしかった。
二人きりで会ってから俺の『究極の我儘』を聞いたあのひとは、少しだけ驚いたような表情をしたがすぐに面白そうに微笑んで頷いてくれた。
ーーあなたの腕の中で眠らせてもらえませんか?
初対面の人間から出た突拍子もない頼み事。
月に一度、ただあなたの腕の中で眠らせてほしい。
自分でもどうしてそんなことを言ったのだろうと今でも不思議でたまらない。
ただ初めてあのひとの胸に頬を寄せ細い腕に抱かれて瞳を閉じたとき、心の底から安心して夢をみることもなく深い眠りに引きずりこまれたことが、今もなお心身に強く深く刻み込まれている。
そして再び目を覚ましたときの爽快感は、さながら百年の眠りから目覚めた眠り姫のような新鮮さで、初めて会ったとき自分が感じたあのひとへの直感は正しかったのだと思い知った。
それ以来必ず月に一度はあのひとの部屋を訪れ、小さなベッドで二人で眠る。
ーーもう少し大きなベッドに換えたほうがいいかしら。
背の高い俺がもっとゆっくり眠れるようにとの提案だったが、この狭さがなければ俺の眠りは完成しない。
ーーそれじゃあ、あなたの腕の中で眠る口実がなくなってしまうでしょう?
俺の言葉にしょうがないひとねと言うようにあのひとは少しだけ笑う。
ベッドルームにあるチェストには2年前に亡くなったというあのひとの夫の写真が飾られている。
なんとなく後ろめたい気持ちでフレームをそっと倒すと、
ーーなぜ?
ーーなぜ、って…。
狼狽えた口調を隠せぬまま口ごもる俺に、あのひとは凛として言い放つ。
ーー私たち、何も後ろめたいことなんてしていないでしょう?
ただ一緒に眠るだけ。
ただ、それだけ。
肉体関係を持たずただ抱きしめ抱きしめられて眠るだけの関係なのだ、後ろめたいことは何一つとしてないとあのひとは静かに笑う。
俺にも身体の奥から激ってどうしようもない夜がある。
でもそんなときはあのひとの部屋を訪れることは決してしない。
あのひとはそういった感情の対象ではないし、もしそうなってしまったときには絶対に引き返せないことが俺にはわかっているのだ。
でも今になると寧ろ肉体関係を持っていた方が楽だったのかもしれないと思った。
身体の結び付きよりも心の結び付きの方がもう後戻りできない、心の深いところまでいってしまうから。
タクシーから降りた俺は宵闇に紛れてそっとマンションの一室に滑り込んだ。
出迎えてくれたあのひとのやわらかな笑顔を見ると、思わず抱きしめずにはいられなくなる。
ーーやっと会えた…。会いたかった…。
静かに抱擁を受け止めてくれるあのひとの髪に顔を埋め、清潔なサボンの匂いを思いきり吸い込む。
一秒の時間を惜しむように肌に馴染むリネンのベッドへ潜り込むと、あのひとは俺を見下ろして不思議そうな顔を向ける。
ーーなぜここだとよく眠れるのかしら。
ーーどうしてだかわからないけど、あなたのそばだと眠れるんだ。
すごく安心して、この上なく気持ちよく目覚めることができるんだ。
正直、自分にもなぜなのかはわからない。
だけどそれが真実なのだからしょうがない。
ーーそんなの、お付き合いしている人にしてもらえばいいでしょう?
愛している人のそばの方がよく眠れるわ。
そう言うあのひとの口調はいつものように静かで、そこに嫉妬の想いが込められていないことに俺はわけもなく苛ついた。
友人でも恋人でもない関係の二人。
かといってあのひとは母のような気持ちで俺に接しているわけでもない。
そんなカテゴリーが邪魔になるくらいあのひとと俺の関係は特殊で、他にまたとない稀有な繋がりなのだと思っている。
ーー常識的に考えるとそうかもしれないけれど。
つい子どもじみた口調になってしまうが、あのひとの前では自分を隠すことができない。
ーー恋人の腕の中が一番よ。
にっこりと微笑む姿を少し憎らしくさえ思いながら、枕に埋めた顔を持ち上げてあのひとに静かに微笑みを返してやる。
ーーいじわるなことを言うね。
ーーいじわる?
あなたはいじわるだ。
無意識で俺を試そうとする。
ーーもういいから、早く眠りたい…。
徐に引き寄せたあのひとの身体はしなやかでやわらかく、胸に頬を埋めると次第に身体の奥が痺れたように熱くなっていく。
肉体関係を持っていた方が本当は楽なのだとわかってもいて、プラトニックな関係を続ければ続けるほど離れられなくなる危険性を孕んでいるのだということもわかっている。
ーーマリア様に抱かれているみたいだ。
ーーマリア様?
やわらかな胸に頬を寄せそっと閉じていた瞳をあの人に向けてみる。
射るように。
決して逃さないという、強い光を放って。
ーー聖母マリアだよ。
もう、わかっているんだ。
どんなに取り繕っても隠せないよ。
ーーすべてを赦してくれる、聖母マリア…。
頬を寄せたあの人の胸の奥で、どんどん速くなっていく鼓動が言わんとしていること。
おそらく自分と同じ想いがそこにはある。
この先に何があったとしても、おそらくこうして二人で眠る夜を過ごしているということ。
それはお互いの望みであるという証のようで、俺の口元には自然と笑みが浮かび上がる。
温かな肌の温もりとサボンの匂いに包まれて、俺はいつしかいつもの心地よい深い眠りの中に引き込まれていった。
ほんの数時間の眠りにもかかわらず、目覚めた俺の身体は不思議なくらい軽くなっていた。
カチコチと規則正しい時計の音が、再び身を置く戦場のような慌ただしい日常へ誘うかのように耳に響く。
レモンを絞った冷たい水が入ったグラスを受け取り、少しずつ飲み干していく間に思考が次第に日常へと戻っていくのを感じた。
ここで過ごす夜は俺にとって非日常なのだ。
慌ただしい日常があるからこそ、この夜が自分にとってなくてはならない特別なものになっている。
そう思うと慌ただしい日常がありがたくさえ思えるから不思議なものだ。
玄関先まで見送るあのひとは変わらずマリアの微笑みを湛えている。
俺の『究極の我儘』を受け止めてくれる、慈愛に満ちた聖母マリア。
そっと抱き寄せて額に軽く唇を寄せる。
ーーまた会いましょう。
いつもの約束の言葉を聞いたあのひとの、少しホッとしたような微笑みを確かめて俺はドアを閉める。
マンションの入り口に来た時同様に止まるタクシーに乗り込むと、車は静かな住宅街をゆっくりと走り出した。
夜明け前の薄闇の空に張りつく月はまだ冴え冴えとした光で地上を照らし、俺はあのひとの温もりに満たされて喧騒ひしめく日常へと再び戻っていった。
完
今回の作品は前回書いた『いじわるなマリア』の続編で、男性側からみた不思議な二人の姿を書いてみました。
説明できない不思議な関係。
でもそこには二人にしかわからないたしかな絆があって、そういった関係があっても面白いんじゃないかなと書きながら思ったまーたるです
(●´ω`●)
二人が過ごす不思議な夜の場面を想像しながらとても楽しく書けました(о´∀`о)
皆さんにもその場面場面が目の前に浮かんできてもらえたら嬉しく思います✨
最後まで読んでくださりありがとうございます❗️
(●´ω`●)❤️✨