まーたる文庫。

まーたるの小説・エッセイブログ🖋✨💕

『天眼の子』

 

 黄土国は国名の由来にもなっている黄土色の強い木や土を使った建物がひしめき合う、活気溢れる壮大な都を中心とした大国である。

 遥か遠くから見ても豪奢な造りだとわかる宮殿には国を統べる王の一族が住まい、それを護るかのように建つ家々には数百万という民たちがそれぞれの暮らしを営んでいた。

 千年前の天眼の子出現の折には激しく衰退し滅亡寸前まで突き進んだ黄土国も今では落ち着きを取り戻し、近隣諸国の中でも豊かな国のひとつとなっている。

 都の賑わいを近くに感じられる距離まで辿り着いた龍砂王改め月白と朱ノ夜は、馬上にあってその喧騒に圧倒されるようであった。

 

「これが黄土国…」

 

 眼下に広がるのは市場だろうか、そこには噂に聞いていた悪国とは思えない民たちの生き生きとした暮らしぶりが二人の眼に眩しく映っていた。

 

「なんと賑やかな国なのだ」

 

 月白はひしめき合う人々から放たれる人間のエネルギーのようなものを感じて、ほうっと息をついた。

 

「見るがよい、朱ノ夜。

民が皆あのように生き生きと暮らしている。

黄土国は悪しき大国だと噂を聞いていたが、ここは本当に黄土国で間違いはないか?」

 

「国名にもある黄土色で溢れる街並み、天の星の位置から見てもたしかにここは黄土国に間違いはございませぬ。

しかし噂とはあてにならないものにございますね。

民たちがあのように明るく楽しそうに暮らしている国が悪しき国であるはずはございませぬから」

 

 朱ノ夜の言葉に月白はゆっくりと頷き、遠くを見やるその瞳には深い慈愛の色が浮かんでいた。

 おそらく我が国のことを思い出しているに違いなく、朱ノ夜もまた眼下の喧騒の中に龍砂王の治世下で明るくのびのびと暮らす民を想うのであった。

 日が暮れる前に今宵の宿をみつけるべく街へ向かう途中、樹々の陰に隠れるようにひっそりと口を開けた洞穴が姿を現した。

 ゆっくりとその前に差し掛かった時、朱ノ夜は急激に肌が粟立つような感覚を全身に感じた。

 洞穴の入り口付近にはごろごろと転がった人の拳ほどの石の礫が不自然に積まれ、それはいくつもの山を作って異様な光景に見えた。

 洞穴の中には漆黒の闇が広がり、つい先程まで賑やかだった鳥たちの囀りも掻き消されたように無く、辺りは耳の奥が痛くなるような静寂に包まれている。

 月白も異変を感じ取って嘶く馬を宥めながら用心深く辺りに視線を配っていた。

 洞穴の前に馬を進めた朱ノ夜が中から鈍く放たれる異様な光を見た途端、

 

「あッ……!」

 

 胸元の勾玉が熱を帯び始め慌てて取り出すと、眩い緑色の光が洞穴の中を貫いた。

 その光に先導されるかのように暗闇から現れたのは、身体を銀色の光で包まれた男だった。

 目元には射抜くような鋭く強い光がたゆたい、真っ白な衣からは大きな尾がゆらりと覗いている。

 

「懐かしや、夏虫か。

いや、彼の者であるはずもないな……」

 

 地に響くような低い声は心なしか切なげな声色に聞こえ、勾玉はその声に呼応するようにさらに熱くなった。

 

「……夏虫の心を授けられし者か。

そなた名は何という」

 

 男の声は朱ノ夜の耳にひどく優しく届くと同時にどこか空恐ろしいものにも感じられ、月白だけは守らねばと朱ノ夜は男の前に立ちはだかった。

 

「人に名を尋ねるのならばまずは自分から名乗られよ」

 

 語気強く言い放つ朱ノ夜をみつめ息を飲んだ男は、フッと笑みをこぼした。

 

「井氷鹿」

 

「井氷鹿?」

 

「遥か昔よりこの地に住まう者。

夏虫よ、またそなたに出会えるとは思わなんだ」

 

 井氷鹿はどこかうっとりとした表情でゆっくりと朱ノ夜に近づいてきた。

 その歩みを遮るように朱ノ夜の凛とした声が静寂に響いた。

 

「私は夏虫ではない」

 

「名は?」

 

「朱ノ夜」

 

「朱ノ夜……。

美しい名だ。

夏虫の心を授けられし星読ノ巫女か」

 

「なぜそれを……⁈」

 

 朱ノ夜は目を見開き井氷鹿を凝視した。

 優しげな微笑みを浮かべたまま、井氷鹿は朱ノ夜の後ろの月白に鋭い視線を投げかけた。

 その瞳には明らかな敵意が揺らめいて見える。

 

「麗しき王よ、そのような強い覇気を纏ったままではすぐに命を落とすことになりますぞ」

 

「そなた、なぜ国王陛下のことを⁈」

 

 朱ノ夜のさらに見開かれた大きな瞳に、井氷鹿は喉の奥からクックッと面白そうな笑い声を立てた。

 地響きのように低い笑い声が次第に大きくなると、井氷鹿の身体から放たれる銀色の光もまた強烈に薄闇を照らし出した。

 

 ……ヒュッ!

 

 空気を切り裂くような乾いた音とともに朱ノ夜の頬を何かが掠め、渦高く積まれた石の山にぶつかった。

 

「石……?」

 

 ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ……!

 

「月白様!」

 

 朱ノ夜は月白を半ば突き飛ばすように草むらの中へ押し込むと、石の礫が次々と飛んでくる方向へと走り出した。

 

「誰だ!

なぜこのようなことをする!」

 

 朱ノ夜の怒声が辺りの空気をビリビリと引き裂くように響いた。

 それでもなお激しく飛んでくる石の礫を避けながら、怒りが頂点に達した朱ノ夜は被っていた銀糸の頭巾をかなぐり捨てた。

 

「あッ!」

 

 朱ノ夜の姿に明らかに動揺する者たちの声が暗闇の向こうから聞こえてきた。

 

「ば、化け物……ッ!」

 

 ざわざわと吹く風に長い髪がうねり、左右それぞれの瞳が青と黄金色にも似た黄色の光を妖しく放ち始めるとさらに慄きの声が飛び交った。

 

「化け物!

また化け物だ!」

 

「なんと禍々しい!」

 

「恐ろしや、早ようここから去ね!」

 

 再び飛んできた石の礫が井氷鹿の肩に当たると井氷鹿は唇の端を歪ませてにやりと笑い、握りしめた礫はその手の中で粉々に砕け散った。

 ならず者たちはその笑みに恐れ慄いたのか慌てて崖を滑り降り、賑やかな喧騒の中へと紛れ込んで行った。

 再び静寂が戻ると辺りはもう闇に包まれていた。

 

「月白様!」

 

 朱ノ夜は月白の元へ駆け寄った。

 

「お怪我はございませぬか⁈」

 

「そなたがおるのだ、私に大事があるはずはない。

朱ノ夜、礼を言う」

 

 それよりも、と月白は砕け散った礫のかけらを握りしめて佇む井氷鹿の後ろ姿をみつめた。

 その背中からは恐ろしさなど微塵も感じられず、ただ果てのない悲しみと寂しさだけが伝わってくるようだった。

 井氷鹿が住まいとしている洞穴の入り口に積まれた異様な石山の光景の理由がわかり、朱ノ夜も何とも言えない気持ちになった。

 

ーー瞳の色が左右で違うなんて、なんて薄気味悪い子。

 

ーーあの真っ白な肌も人ではないみたい。

 

ーー大巫女になんて選ばれないでよかった、あんな気持ちの悪い姿になんかなりたくないもの。

 

 星読ノ宮に入る前の幼い自分に寄せられた声に傷ついた日々を思い出し、久しぶりに朱ノ夜の心がじくりと痛んだ。

 突き刺さるような視線、繰り返される心ない密やかな声に、その場から逃げ出したくなるような薄ら寒さが背筋を幾度も伝わっていく。

 異形の姿で超常力を持つ井氷鹿もまた、朱ノ夜と同じような声を浴び続けてきたに違いなく、この石の礫の山がそのことを顕著に物語っていた。

 

「井氷鹿、今宵はそなたの住まいに世話になる」

 

 月白の唐突な申し出に朱ノ夜は慌てて首を振った。

 

「なりませぬ!

ここにおいでになっては危のうございます!

先ほどの輩がまた襲ってでもきたら……!」

 

「私の覇気は思うより強いらしい。

井氷鹿なら覇気を隠せる術を知っておるやもしれぬ、教えを請いたい」

 

「いえ、しかしそれは……!」

 

 月白はなおも渋る朱ノ夜の薄っすらと血が滲んだ頬にそっと触れた。

 

「礫がかすめたか。

そなたの言葉に甘え身を隠していた己れが恥ずかしい。

ーーすまぬ」

 

 月白の冷たい指先が優しくなぞると朱ノ夜の頬は急速に火照り出し、気恥ずかしさを悟られまいと慌てて俯いた。

 井氷鹿は氷のように冷たい表情でその様子をじっとみつめていたが、

 

「王よ、お気の召すままに」

 

 唇の端をヒュッと上げると粉々になった石の礫を石山に振りかけ、暗い穴の中へと姿を消した。

 月白と朱ノ夜が連れ立って井氷鹿の後を追い暗闇に足を投じた瞬間、再び夏虫の勾玉が眩い緑の光を放ち始めた。

 

「見よ、夏虫も行けと申しておる」

 

 月白の言葉に朱ノ夜は表情を固くしながらも、井氷鹿という異形の者が何者でなぜ黄土国の民から非道な仕打ちをされているのかを知りたかった。

 そして千年前の大巫女夏虫との関係を知ることで天眼の子の行方の些細な手がかりを掴めるかもしれないと思い、意を決して一歩を踏み出した。

 

 

                  4話 完

 

 

 

 

3話からずいぶん間が空いてしまいました(*≧∀≦*)💦

昔から古事記に出てくる国津神・井氷鹿になぜか惹かれてしまうまーたる。

どうしても登場させたかった人物であります✨

この井氷鹿は実際謎の多い人物でありますが、この小説内でもこの先重要な役割を果たしていくことになりそうです。

朱ノ夜と井氷鹿が抱く心の痛みにも注目していただけたらと思います。

龍砂王改め月白と朱ノ夜の天眼の子を探す旅の本格的な始まり。

今後も楽しんでいただけたら嬉しいです❗️

最後まで読んでくださりありがとうございます

ヽ(*^ω^*)ノ❤️✨

 

 

 

 

 

 

 

『天眼の子』

 蒼き龍の国の国境を密かに越えてから、今日で幾つの朝を迎えたのだろう。

 朱ノ夜は深い藍色の空の向こうに薄っすらと太陽の光を滲ませ始めた地平線を、瞬きもせずみつめながらゆっくりと深呼吸をした。

 大樹の下で静かな寝息をたてて眠る龍砂王の目を覚さないように最新の注意を払いながら、太い枝に手を伸ばすとするするっと軽やかに樹々を駆け登り、あっという間に天辺に辿り着いた。

 見はるかす地上に次第に光が差し始め、辺りの様子が明らかになってくると、ここはすでに黄土国の領土内なのだと朱ノ夜は思った。

 黄土国は蒼き龍の国の東にあり、隙あらば侵略しようと常に虎視眈々と狙っている。

 千年前の天眼の子の出現の際には国王が暗殺されたという大国で、その国土は広大で豊かな資源に恵まれてはいるものの、周辺国からの黄土国の評判は芳しくない。

 千年前暗殺された国王の代わりに玉座に就いた新王は、天眼の子を手に入れることもできず、ただいたずらに国力を削いだだけで、国を崩壊寸前まで追いやった暗愚の王であった。

 なんとか国は存続したものの暗愚の王はその後発狂して命を断つという末路を迎え、現在は未だその狂王の子孫がこの国を支配しているという。

 朱ノ夜が天眼の子の居場所を考えあぐねてふと東を向いた時、首から下げている夏虫の勾玉の首飾りが異様に重くなった。

 これは何かの知らせなのかもしれぬと、東へ向けて密かに馬を駆けさせてきた朱ノ夜と龍砂王の二人であった。

 眼下に広がる広大な地には民が暮らす家々が小さくひしめき合い、遥か向こうには肉眼でもわかるほどの大きさの王宮を見ることができた。

 まずは市中に忍び入り国内の様子と天眼の子の行方のかけらでもいい、何か情報を手に入れたいと朱ノ夜は思った。

 そのとき風がふわりと大きく吹いて、朱ノ夜は慌てて樹々の間を滑り降りた。

 

「国王陛下」

 

 目覚めた龍砂王の足元に膝まづき朱ノ夜は頭を垂れた。

 やつれた旅装束に身を包んでいるとはいえ、龍砂王からは隠しきれない高貴なオーラが溢れている。

 涼やかな目元を綻ばせながら龍砂王は静かに笑った。

 

「国王陛下の御傍を離れてしまい申し訳ございませぬ」

 

 辺りの様子を伺うとはいえ国王を一人きりにしてしまったことを心から詫びる朱ノ夜に、龍砂王は鷹揚に微笑みかけた。

 

「朱ノ夜。

我々は天眼の子を手に入れるべく隠密に国々を旅している。

そうだな?」

 

「仰せの通りにございます」

 

「私もそなたも決して身分を知られてはならぬ」

 

「仰せの通りにございます」

 

「ならば今、この瞬間から私は王ではない。

ただの旅人、そなたの友だ」

 

 朱ノ夜はギョッとして顔を上げ、朗らかに笑う龍砂王をまじまじとみつめた。

 艶やかな黒髪が風に靡き、涼やかな目元に浮かぶ笑みには深い慈愛が込められている。

 民を想い国を想う善王と称えられる龍砂王の、一点の曇りもない心が映し出されているような澄んだ瞳であった。

 

「天眼の子を連れ国へ戻るまで、そなたは私が王であることを忘れよ」

 

「国王陛下…」

 

 蒼き龍の守護する国に君臨し、民にとっては神にも等しい王を友と思うことは不敬すぎるほど不敬ではあるが、善王の誉高い龍砂王の名は諸国の知るところでもある。

 身分を知られて龍砂王を危険に晒すことだけはなんとしても避けねばならないこの旅路にあって、王と臣下という繋がりはいったん自分の中から消し去らねばならないと朱ノ夜は唇を噛んだ。

 

「今から私のことを国王と呼んではならぬ」

 

「では、私はなんとお呼びすれば…」

 

「ーー月白」

 

「つきしろ…?」

 

「この色が好きなのだ。

私に相応しい、薄い青を帯びた月の光…」

 

 眩いほどの太陽の光こそ威風堂々とした龍砂王に相応しいと思う朱ノ夜だけに、龍砂王の言葉は意外すぎるものであった。

 朱ノ夜は初めて龍砂王に目通りを許された十年前のあの日のことを思い出していた。

 大巫女端白女の後継者としての挨拶を奏上すべく、即位したばかりの若き新王の御前に出た時、世の中にこれほど光り輝くオーラを纏う人間がいるのかと思わず息を飲んだ。

 隣では端白女も同じように息を飲んでおり、新王の圧倒的なオーラはまるで太陽の光のように眩しかった。

 その瞬間にこの王は蒼き龍の国にとってこの上ない繁栄とともに、揺るがない平和の御代に導く賢者であると確信した朱ノ夜であった。

 それからの十年、朱ノ夜の確信通り蒼き龍の国は繁栄と平和に満ちた善の国として、混沌とした世界の中でも稀なる国となっている。

 

「民が一生懸命に働き、臣下たちが国を強く守り、星読ノ宮の巫女たちが国の安寧を日々神に祈ってくれているおかげだ。

私は何もしておらぬ。

ただ玉座に座っておるだけだ」

 

 そう言って朗らかに笑う龍砂王が君臨しているからこそ、この国は神の御加護を得て安寧の道をゆけるのだと朱ノ夜はしみじみと思う。

 慈愛に満ち曇りなき青天のように澄み切った心の龍砂王だから、この混沌として澱んだ世界から民を守り幸せに導くことができるのだ。

 そんな善王の傍で運命の旅路をゆく喜びを感じ、そう感じる自分を朱ノ夜は不思議に思いながら頬を紅潮させた。

 

 

「世界の一大事ゆえとはいえ、私はこれから新たな名になるのだな」

 

 少し寂しそうに、それでいて感慨深そうに龍砂王は呟いた。

 蒼き龍の国の王の名前には代々『龍』の文字が入っており、『龍砂』という御名は父である先王から贈られた、王にとっては大切な名前である。

 孝行心の厚い龍砂王にとって親から贈られた大切な名前を、期間限定とはいえ変えてしまうことに耐えられない思いがきっとあるに違いない。

 しばらく想いを馳せるように空を見上げていたが、やがて何かを吹っ切ったように晴れやかな表情になった。

 

「今から私は月白だ、よいな」

 

 そう言って朱ノ夜に悪戯な笑みを寄越し出立の準備に取り掛かる龍砂王、いや月白の後を朱ノ夜は慌てて追いかけていった。

 

 

 龍砂王と大巫女朱ノ夜が千年ぶりに誕生する天眼の子を手に入れるべく、二人連れ立って極秘に出国してから数週間が過ぎた。

 蒼き龍の国では特別変化はみられず、民たちの暮らしもいたって平穏なものであった。

 国王と国を護る星読ノ宮の大巫女の不在は徹底的に隠されていたし、そのことを知るのは留守を託された王妃と騎士団の長である蒼珠、国王付きの女官長淡藤、そして星読ノ宮の巫女たちだけである。

 臣下と話す際には御簾を下ろし影武者となった蒼珠が龍砂王の代わりを粛々とこなしており、元々姿形、声質までもが似ているものだから不審に思う者もいなかった。

 仮にあったとしても天眼の子の誕生という一大事、国王の心身の疲労も相当なものなのだから、声のトーンもこれまでと同じように穏やかなものであるわけはないという思いが臣下たちの中にある。

 そもそもそんな一大事にあって、まさか国王と星読ノ宮の大巫女という二つの国の支柱が、連れ立って国を出ているなどという考えには及ぶまい。

 

「お疲れ様でした」

 

 奥宮へ戻った蒼珠を王妃は嫋やかに出迎えた。

 扉が閉められるや否や王妃の前に蒼珠は膝まづく。

 影武者として王宮にいる以上、かりそめにも王妃と同じ部屋で過ごさねばならないこともあるが、二人きりになった時は今まで以上に王妃へ恭しく接している蒼珠である。

 龍砂王は側室を持たず傍に置く女は王妃一人。

 龍砂王を陰日向で支え、国王同様に国中の民から慕われている美しく聡明な王妃だ。 

 黒曜石のような瞳が美しい王妃にみつめられると、男女問わず胸に甘美な想いが湧き上がってくるような、そんな不思議な魅力が溢れている。

 

「蒼珠、ここには私しかおりませぬ。

ただでさえ国王陛下の身代わりとして神経をすり減らしているのですから、せめてここでは肩の力を抜きなさい」

 

「身に余るお言葉にございます」

 

「こちらへ参りお茶でもお飲みなさい」

 

「私は国王陛下の忠実なる臣下、いかなる理由であれ国王陛下の不在時にこれ以上王妃様の御傍近く参ることは許されませぬ」

 

 顔色ひとつ変えず首を垂れる蒼珠をみつめていた王妃は、フッと息を漏らし仕方ないというように笑みを浮かべた。

 

「そなたは昔と少しも変わりませんね」

 

 王妃は甘い湯気を立てる茶器を蒼珠の前に置きながら呟いた。

 

「私が王宮に入ってからもう十年、そなたとも十年の付き合いになりますが、そなたも国王陛下もあの頃のまままるで変わらぬ。

変わったのはこの私くらいでしょうか…」

 

「王妃様は何一つ変わってはおりませぬ。

国王陛下に嫁がれたあの日のまま、お美しく聡明な我が国が誇る王妃陛下でございます」

 

 真っ直ぐな視線を寄越し力強く言い切る蒼珠を見て、王妃は少し眩しそうに目を細めた。

 甘い茶が胸の奥を滑り降りてゆくのを熱く感じながら、王妃は嫁いでからの今日までを振り返っていた。

 蒼き龍の国の中でも由緒ある名家に生まれ人よりも美しく聡明であった王妃は、早くから国王に嫁ぐ有力候補者の一人であった。

 父母は王妃を溺愛しどこへ出しても恥ずかしくないように徹底した教育を施し、王妃もまた父母の想いに応えるべく願いのその通りに成長した。

 代替わりで新たに即位した若き新王に嫁ぐことが決まった時、王妃は父母の願いを叶えることができた安堵感で一杯になった。

 父母、親族はもちろん国中が歓喜の中にあったが、しかし王妃自身はどこか他人事で、日が経つにつれ寧ろ鬱屈とした思いが心の中で渦を巻くように大きくなっていた。

 いくら聡明でも十二歳になったばかり、国を統べる国王の元に嫁ぐその責任の重さは日に日にそのか細い肩にずっしりとのしかかる。

 次第に大きくなってゆく不安を押し殺しながら王宮に入った王妃は、新王の力強くも優しい人柄に心から安堵したと同時に、以前とは違う責任を感じるようになり始めた。

 

「一日も早く御子を、お世継ぎのご誕生を!」

 

 王妃は嫋やかな笑みを浮かべる裏で、日増しに大きくなるその期待の声に敏感になっていった。

 一年、三年が過ぎても一向に身ごもる気配はない。

 いたたまれず側室を持つように勧めても、王は首を縦には振らなかった。

 王の自分への愛情を感じて嬉しくもありがたく思う王妃であったが、時が経てば経つほど身ごもれない自分を責める気持ちばかりが膨れ上がる。

 そんな自分の気持ちをどうにもできず、あろうことか自分を想い労わる王の気持ちを鬱陶しく思うようになり始めていた。

 嫁いで十年を迎え未だ後継ぎの御子がいないまま、今回の天眼の子の誕生という世界の一大事が起こった。

 王自ら天眼の子を探す旅に出ると聞いた時、もしかしたら龍砂王は天眼の子をこの国の後継者にしようと考えているのかもしれないと王妃は思った。

 いつまでも子を授からないのは天眼の子がこの国を統べる運命なのではないか、この国が世界を安寧の道へ導く道標たる存在になるのではないか、と。

 

「今頃、国王陛下と朱ノ夜はどの辺りを進んでいるのでしょうね」

 

「東へ向かうと申されておりましたので今頃は黄土国へ入られたか、その近辺にいらっしゃるのではないかと」

 

「黄土国…」

 

 王妃は呟き、鳥籠の中で首を傾げる鸚鵡にそっと指を伸ばした。

 鸚鵡はすらりと細い王妃の指を軽く突いてみせ、クワァッと小さく鳴いた。

 龍砂王の傍に最強の大巫女と呼ばれる朱ノ夜がいることにこの上ない安心感を持ちながら、一方でチリッとした痛みにも似たざらついた感情を抱く王妃であった。

 異形とはいえ朱ノ夜の人離れした美しさを前に、あの時龍砂王が息を飲み食い入るようにみつめていたことを王妃は知っている。

 今龍砂王の瞳に映るのは自分ではなく朱ノ夜だ。

 

ーー天眼の子を探し出す大事な旅路とはいえ、万が一龍砂王と朱ノ夜が心を通わせたとしたら…。

 

 王妃はどうにもならない嫉妬の業火に身を焼かれるようで思わずギュッと目を閉じた時、鸚鵡の嘴が指に強く突き刺さった。

 

「あッ…!」

 

「真朱(ましゅ)様!」

 

 叫び声に素早く駆け寄った蒼珠に思いがけず名前を呼ばれた王妃は、ほんの少し呆気に取られた。

 久しく呼ばれなかった自分の名前。

 龍砂王でさえ呼ぶことのほとんどない、自分の名前。

 王宮に入ったばかりの頃、蒼珠はこうしていつも名前を呼んでくれていたっけ。

 そうだ、自分にも名前はあったのだと当たり前のことを思い出し、澱んでいた心を覆っていた霧がサアッと晴れてゆくのを感じた。

 

「これは、とんだ失礼を…!」

 

 慌てて後ろへ退こうとする蒼珠の手を王妃は握りしめた。

 

「蒼珠、私の名前を…」

 

「王妃様の尊き御名、思わず口走ってしまい申し訳ございませぬ!

咄嗟に口走ってしまったこと、何卒お許しください!」

 

「…もう一度」

 

「……。」

 

「呼んでくれませぬか、私の名を」

 

 呆けたように呟きながら、それでも瞳に生き生きとした光が蘇ってきた王妃を前に、蒼珠は心が不思議と痺れたようになった。

 

「真朱様」

 

 王や民の信頼厚い蒼き龍の国の王妃ではない、ただの一人の女としての自分が蘇り、王妃は思わず蒼珠の胸の中に飛び込んだ。

 

ーー真朱、そうだ、私の名前は、真朱…。

 

 

 本来の自分を取り戻し熱い気持ちが迸るかのように、王妃の真っ白な指から真紅の血が一筋流れ落ちていくのだった。

 

 

                   完

 

 

 

『天眼の子』第3話です。

 

ご覧くださりありがとうございます❗️

 

「名前」というテーマがポンッて浮かんできたので書いてみました。

 

この先の旅路、どうしていこうかな。

 

考えるの楽しすぎる❗️ヽ(*^ω^*)ノ✨

 

楽しみながら書き進めていきます(о´∀`о)

 

また読んでいただけたら嬉しいです(●´ω`●)

 

ありがとうございます✨

 

 

 

 

 

 

 

『ミルクの温度』

 深夜に飲むミルクはぬるめがいい。

 熱すぎると萎れた心がさらにダメージを浴びて動けなくなるし、かといって冷たすぎても沈んだ心がさらに凍えて動かなくなる。

 どちらにしても心が動かなくなるという点では同じなので、ならば間をとってぬるめのミルクでノロノロな動作でも常に動けるようにしていたいと思う千弦(ちづる)であった。

 電気も付けず真っ暗なキッチンは決まってよそよそしい。

 残暑が過ぎ、秋風が冷たく感じるようになるとなおさらだ。

 小さなミルクパンの中で少しずつ温まっていくミルクの泡を千弦は注意深くみつめていた。

 カップ一杯分のミルクはほんの少し目を離しただけで、すぐに夥しい泡を噴き上げながら沸騰してしまう。

 

ーーまるで奏太みたい…。

 

 千弦はついさっきまで会っていた恋人を想い目を閉じる。

 正確には元恋人になる奏太。

 一週間だ。

 忙しかった仕事になんとか区切りをつけ、一週間ぶりのデートでのまさに青天の霹靂。

 

「…ごめん。

別れてくれないか?」

 

 苦しそうに言う奏太の大きな手が膝の上できつく握りしめられているのを見ながら、飛び出したその言葉を千弦はどこか他人事のようにぼんやりと聞いていた。

 

「好きな人がいるんだ。

この先ずっと一緒にいたいと思ってる」

 

 力強く言い切った奏太の視線がまっすぐに自分に向けられているのを見て、千弦はそれがようやく自分の身に起こっている現実の出来事なのだと思った。

 そしてその刹那、足の爪先からぞわぞわとした感覚が這い上がると身体が小刻みに震え始めた。

 夜になるとバーになるこの喫茶店は千弦のお気に入りで、先週末に二人で来た時はたしか二人の将来について話をしたはずではなかったか?

 甘い恋人たちのひと時を心ゆくまで楽しんだのは夢だったのか?

 

「急で、ごめん…」

 

 奏太は視線を膝に落として小さく呟いた。

 

「一目惚れなんだ、俺の。

彼女と一緒にいたいって、なんていうか、雷に打たれたっていうか、その、とにかく…。

運命だと思ったんだ」

 

 真っ直ぐに向けられた奏太の視線をその時の自分はどう受け止めていたのだろうと思い、千弦はふっと笑った。

 真顔だったのか驚いていたのか怒っていたのか、悲しんでいたのか。

 ただあの時の奏太の表情は負けるもんかというように、唇を一文字にきつく結んでいた子どものような表情をしていた。

 奏太と出会い付き合い始めて四年、お互い忙しくしている中でも絆を深めたしかな愛情で繋がっていたことは、今も疑う余地はない。

 おそらく奏太は今でも自分のことを嫌いではないのだろうと千弦は思う。 

 良いことも悪いこともあった四年間、ともに紡いできた二人の想い出はたしかにあって、その想い出に屈するものかと言わんばかりの奏太の表情は寧ろ痛々しくも見えた。

 

「四年間が、たった一週間でなかったことになるのね」

 

 千弦は自分の声があまりにも冷たく耳に届いたことに驚いた。

 奏太は一瞬怯えたように肩を震わせる。

 怒り、悲しみというような言葉では簡単に表せない感情に誰よりも千弦が戸惑っているのを、まるで自分が別れを告げられているかのように苦しげに眉をひそめる奏太にはきっとわかるまい。

 

「彼女はこの間新しく入社してきた人でとてもよく笑って…」

 

「もういいわ」

 

「千弦」

 

「あなたにとっての一番が私ではなくなったってことなのよね。

だったら私たちはもう一緒にいる意味がないって、そういうことなのよね」

 

「恋なんだ、たぶん、初めての」

 

 奏太はうっとりしたように視線を空に向けた。

 おそらくその先には奏太が恋する自分が知らない女の姿が浮かんでいるのだろう。

 恋する男には自分が今どんなに残酷なことを言っているのかなんてわかってはいない。

 これから置き去りにされる女のことなど眼中にない。

 奏太の心はすでに自分から離れて、新たな恋の喜びに満ち溢れているのだから。

 別れを口にした途端、奏太の中ですでに自分はもう『過去の恋人』になってしまっているのだ。

 千弦の中に奏太への想いが未だ深くあるにしても、すでに遠く離れてしまった心の距離を取り戻すことはできない。

 それを確信できるような晴れ晴れとした奏太の表情に、千弦の心は凪のように静まり返っていく。

 

「千弦と過ごした四年間、絶対に忘れないから。

本当にありがとう」

 

 奏太は立ち上がり深々と頭を下げると、テーブルの上の伝票を掴んでカウンターへ向かった。

 千弦へのひとかけらの憐憫も含まれない奏太の声は、新しい恋に心を踊らせているように明るく響いた。

 それがあまりにも正直で千弦は思わず苦笑いを浮かべながら、嬉々として駆け出して行く奏太の後ろ姿を黙ってみつめた。

 目の前にある手付かずのコーヒーカップからはすでに温かな湯気は消えている。

 千弦は徐にカップを取ると、仰るように一気に飲み干した。

 ぬるくなったコーヒーは苦味を増しながら喉を勢いよく滑り降りていく。

 

「よかったらどうぞ」

 

 飲み干したあと空になったカップの底をぼんやりとみつめていた千弦がハッと顔を上げると、店のオーナーが優しく微笑みながら銀の小皿をテーブルに置いた。

 一口大の小さな焼き菓子が二つ乗っかっている。

 

「ごめんなさい、騒がしくしてしまったかしら」

 

 千弦が肩を竦めながら謝ると、オーナーはゆっくりと首を横に振る。

 艶やかな黒髪のショートヘアからダイヤモンドなのだろうか、ピアスの美しい光がゆらゆらと煌いて見えた。

 

「恋はいつか醒める夢。

愛は永遠に醒めぬ夢。

人を想うことは夢を見ることと同じよ。

良くも悪くもね。

夢は醒めてもまた見ることができるわ。

そしてそれを繰り返すうちに、いつか必ず醒めない夢に辿り着くものなのよ」

 

 オーナーは静かに言い、ごゆっくりと微笑んでカウンターへ戻って行った。 

 

 ミルクパンの中で泡立ち始めたミルクをマグカップに移し、そっとミルクをひと啜りすると、熱くもなく冷たすぎもしない程よい温度のミルクに千弦はホッとして息を着いた。

 

ーー恋はいつか醒める夢。

愛は永遠に醒めぬ夢。

繰り返し見るうちにいつか醒めぬ夢に辿り着く…か。

 

 オーナーの言葉を胸の中で繰り返しながらミルクをゆっくりと喉へ滑らせると、千弦の心を覆っていた膜のようなものが晴れていくのを感じた。

 

「あ、ミルクの膜」

 

 表面に薄っすらと浮かぶ膜を小指ですくい残ったミルクを飲み干すと、何か吹っ切れたようにスッキリした気持ちになった。

 カーテンの隙間から差し込む月明かりが優しく広がるベッドへ潜り込むと、薄い掛け布団のあたたかさが千弦を包んだ。

 今夜からまた新しい夢を見ていつか辿り着く醒めない夢へ想いを馳せながら、千弦はゆっくりと目を閉じていくのだった。

 

 

                   完

 

 

 

 

自分が思う『恋』と『愛』ってなんだろうな〜と考えていたとき、ふっと降りてきた物語を書いてみました😚📝✨

楽しんでいただけたら幸いです❤️

最後まで読んでくださりありがとうございます❗️

 

 

 

『天眼の子』

 普段なら鼻息も荒く力強い馬の嗎が、今夜に限っては夜空に吸い込まれそうに頼りなく、密やかな緊迫感に包まれた王宮では天眼の子を探し出す出立の準備が着々と進んでいた。

 一度星読ノ宮に戻った朱ノ夜は、自分が旅立った後のことを留守を任せる巫女たちに細々申し伝えたあと、一人奥の御座所に籠った。

 あと半刻もすれば旅衣装に身を包んだ龍砂王が闇に紛れて訪れる手筈になっており、もうあまり時間がない。

 御座所のさらに奥には朱ノ夜の全身を写すほどの大きな鏡が設置されており、そこから放たれる光はあたかも仄暗い水底にたゆたうような鈍い光であった。

 歴代の大巫女たちが国と世界の安寧とを祈り続けてきた神鏡の前に座り、朱ノ夜はいつものように祈りを捧げた。

 そして意を決したように鏡台に施された小さな引き出しを開けると、中から古ぼけた木箱が現れた。

 ほんの少し黴びたような臭いがし、引き出しから漂う千年前の空気が鏡と朱ノ夜を取り囲むようにゆっくりと広がっていくのを感じた。

 木箱を前にして亡き端白女の言葉が蘇る。

 

「朱ノ夜。

大巫女となるそなたに申し伝えておくことがある」

 

 いつになく厳しい面持ちの端白女を前に朱ノ夜は表情を引き締めた。

 真っ白な髪に覆われて端白女の顔をはっきりと見ることはできないが、髪同様の真っ白な肌に異様に光る紅い瞳が真っ直ぐに自分に注がれているのを見て、朱ノ夜は思わず身体を硬直させた。

 端白女は皺だらけの指で鏡台の引き出しを指し、

 

「もし天眼の子が誕生する啓示をそなたが受けた時、この引き出しを開けよ」

 

「引き出しを?」

 

 星読ノ宮に代々伝わる大きな鏡は、天からの啓示をつぶさに受け取る力が備わっている神鏡である。

 鏡台には細かい装飾が施されており、神秘的な力とともに国を護る星読ノ宮の古く長い歴史を感じさせるものであった。

 小さな引き出しを指差す端白女の指がぶるぶると震えているのを見て、ただならぬ緊張感が朱ノ夜を襲った。

 千年前に世界を滅亡寸前まで追い詰めた天眼の子。

 神の如く超常力を持つがゆえに時の権力者たちに翻弄され、その身が愚王の手に渡ったことで命を断たれた天眼の子。

 考えてみれば哀れな存在と言ってもいいが、良くも悪くも世界中のすべてに影響を与えてしまう存在はあまりにも危険なものだ。

 世界が辛うじて滅亡を避けられてからじき千年になろうという今、端白女はいったい何を申し伝えるというのか。

 朱ノ夜は静まり返る部屋に自分の鼓動がひどく大きく響くような気がして思わず身構えた。

 

「そこに何があるというのですか?」

 

 恐る恐る尋ねてみると端白女はゆっくりと首を横に振った。

 

「わからぬ」

 

「わからぬ、と…?」

 

 朱ノ夜は拍子抜けしたようにポカンとして端白女をみつめた。

 

「私も先代の大巫女から同じことを伝えられた。

もしそなたの代に天眼の子が誕生したならばその引き出しを開けよ、そしてそなたの命尽きる時に天眼の星がまだ空にあったならば、このことを次なる大巫女にきっと申し伝えよと」

 

 風で灯りがじじじと音を立てて揺れ、端白女と朱ノ夜の影が大きく揺らめいた。

 

「幸いなことに天の眼の星は今も変わらず空に在り、神の啓示を示す曇りも鏡には現れておらぬ。

この先もずっとこのまま時が過ぎればよいと願うばかりだが、いつその時がくるかは誰にもわからない」  

 

 端白女は大きく息をつくと少し苦しそうに喘いだ。

 

「大巫女様!」

 

 慌てて身体を支えようとする朱ノ夜を制し、端白女はゆっくりと息を整える。

 このところ続く悪天候のせいか端白女の体調は思わしくなく、自らの命の終末を感じて今がその時とばかり朱ノ夜に伝えた端白女であった。

 

「天眼の子の誕生は世の喜びであり恐怖でもある。

常々申している通り、天眼の子はこの星読ノ宮の巫女が探し出さねばならぬ我が一族の使命じゃ。

もしそなたの代で天眼の子が現れたならばこの引き出しを開けて、代々継がれてきた大巫女たちの願いと祈りを胸に刻みこの国を出よ」

 

 その時が来ないことを祈るばかりじゃが、と少し顔を伏せながら呟いた端白女の哀しみに満ちた顔が浮かび上がる。

 朱ノ夜は一つ深呼吸して木箱の蓋をそっと開けた。

 艶やかな紫色の衣の上に真っ白な布に包まれた何かが置いてあり、その横には古びた紙が小さく折りたたまれてあった。

 開くと流れるような筆跡が千年の時を越えて朱ノ夜の眼に飛び込んできた。

 

『天眼の者に寄りし時、その珠に宿りし光増し、御身焼けつくほどに天空を貫くべしーー。

勾玉を手にする者よ、恐れるな。

我が魂は常にそなたとともにあらん。         

夏虫』

 

 

「勾玉…?」

 

 厳重に包まれた中から現れたものーー。

 それは美しい翡翠の勾玉の首飾りであった。

 千年前の星読ノ宮の大巫女が身につけていたものなのだろうか。

 千年前の物とはとても思えないほどの艶めきを放つ翡翠の首飾りは、手にするとずっしりとした重みとともに、天眼の子を探す旅に出た大巫女の覚悟のような想いが指先から伝わってくるようだった。

 

「夏虫…」

 

 滅びかけた世界を前にやがて時が流れ、再び天眼の子が現れる世界を見越した大巫女・夏虫が、天眼の子を探し出すという自分と同じ宿命を継がねばならない子孫に遺すべく、全身全霊で祈りを込めた首飾り。

 どうか千年後もこの世界があるように、安寧の地であるようにとの夏虫の切なる想いが心に沁み込んで、いつしか朱ノ夜の頬に一筋の涙が流れていた。

 朱ノ夜は首飾りを首に掛け、大切に胸元にしまう。

 勾玉のひやりとした感触が肌を伝い、いよいよこの時が来たのだと改めて思った。

 自分の治世下で天眼の子が再び目覚めることになるとはと言った龍砂王と同じく、朱ノ夜もまたその大事の時に自分が大巫女の立場にいることになるとはまったく思ってもみなかった。

 来たる時に備えて端白女から霊力を研ぎ澄ますための厳しい教えを受けてきたし、千年前の禍についても学んできた。

 たとえ生きている間に禍事が起こっても、巫女として鍛えてきた霊力と冷静な精神力があればどのような困難も乗り越えていけると思ってきたが、それでも心のどこかに天眼の子との縁が自分に結ばれないことを密かに祈る朱ノ夜でもあった。

 古い歴史書を読むにつけても千年前の大惨事は身震いするほど恐ろしかった。

 大小いくつもの国々が天眼の子を手に入れ我こそが世界の王たらんと、心を心と思わない裏切りと人を人と思わない所業を繰り返し、やがて世界は殺戮の色に染まっていったのだ。

 人の心から『信じ合い想い合う』ことが消え失せた色のない世界は、想像を絶するほどの悲しみで満ち満ちていることだろう。

 

ーーそれだけは避けなければ…。

 

 朱ノ夜は夏虫の想いが沁み込んだ紙を守り袋にしまい、首飾りとともに首にかけふうっと大きく息をついた。

 もうじき龍砂王が訪れる。

 

ーーどこへ向かえばよいものか。

 

 天眼の子を探すといっても世界は広いのだ。

 どこから探せばよいのかと正直途方に暮れてしまう。

 よしんば天眼の子を手に入れたとしてもその先の未来が不透明すぎて、不安ばかりが湧き上がってくるのを朱ノ夜は必死に抑えようとしていた。

 

ーーなぜ、私が大巫女になった途端に…。

 

 朱ノ夜は自分があまりにも酷い仕打ちを受けているような気がした。

 そしてそう思った途端、端白女の俯いた哀しみの表情の中に微かな安堵の色を見たことを思い出した。

 大巫女として国や国王、民たちを護ってきた間天眼の子は現れず、自分の命が短いことを悟った端白女は、千年前の悲劇を体験せずに死んでいける喜びに似た安堵感を隠せなかったのだろう。

 朱ノ夜は端白女を心底羨ましく思った。

 できることならば自分も一生をこの星読ノ宮の奥深くで、国や国王、民と世界の平和と幸せを祈り続けていたかった。

 

ーーなぜ、私が…!

 

 端白女に対して強い嫉妬のようなどす黒い感情かどうッと湧き上がってきたとき、

 

「あ、熱…ッ!」

 

 守り袋にしまった夏虫の文が、急に朱ノ夜の胸元を焦がさんばかりに熱くなった。

 

『恐れてはならぬ、勾玉を継ぐ巫女よ!』

 

 朱ノ夜の耳に凛とした女の声が間違いなく響き、声のした方には先ほどと打って変わって強烈な光を放つ神境があった。

鏡の奥から鋭い光が朱ノ夜をじっと力強く見据えているようであった。

 

『この役目は私だからこそ…。

そなただからこそ!」

 

 怖くて逃げ出してしまいたい気持ちの朱ノ夜は、夏虫の声に思いきり頬を張られたような気がした。

 

ーーそうだ、千年前、天眼の子を探し出すことは夏虫にしかできなかった、そして今、それは私にしかできないことなのだ。

 

 命の危険に晒されながら何処にいるかもわからない天眼の子を探す旅は、おそらく誰もが恐れる使命であり、その使命が自分に回ってきたことには意味があるのだと朱ノ夜は思った。

 

ーー私にしか出来得ないこと、私だから出来得ること…。

それならば、私は…!

 

 朱ノ夜は心の中に黒雲のように湧き上がってくる恐怖心を打ち消すかのように、熱を帯びた守り袋を両手で握りしめた。

 恐怖心に打ち勝とうと心を奮い立たせる朱ノ夜を叱咤激励するかのように、夏虫の文はどんどん熱くなってゆく。

 

「夏虫ノ大巫女よ」

 

 朱ノ夜は眩い光を放つ神境の前に平伏した。

 

「私はきっとこの大災難を乗り越えてゆけるのです。

私だから天眼の子を連れて再びここへ戻ってくることができる、そう信じます」

 

 天窓を開けて星読台へ出ると、生温い風がざわざわと吹き始めていた。

 何度見上げても夜空に天眼の星の姿はない。

 ぽっかりと空洞になったあの空間に、きっと天眼の星を再び戻してみせる。

 自らの使命を改めて心に深く刻んだ朱ノ夜の耳に、今この瞬間から運命を共にする龍砂王の乗った馬の嗎が静かに響くのであった。

 

 

              2話  完

 

 

 

 

『天眼の子』第2話です。

ご覧になってくださりありがとうございます✨💕

今回は降りかかる使命に懊悩する朱ノ夜の心の内を書いてみました。

人にはそれぞれ今生での使命があると思うまーたる。

朱ノ夜が背負った使命にどのように向き合ってゆくのか。

3話から本格的に始まる天眼の子を探す旅を書き始めていきます😊✨

よろしかったらご覧ください❗️😆❤️✨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『天眼の子』

1    天の眼が目覚める夜

 

 その夜、一つの星が堕ちた。

 千年もの間その場所でひときわ輝きを放ちながら瞬いていたその星の欠落は、数多の星々がひしめき合う美しい夜空を一瞬にして異質なものに変えてしまった。

 星たちは天の主を失って動揺しているかのように、そのぽっかりと空いた暗闇の周りを小刻みな瞬きで必死に照らそうとしているかに見えた。

 やがてその急激に様変わりした夜空を切り裂くように沓音が荒々しく地上に響き、それは次第に切羽詰まったように速くなっていった。

 忙しい息づかいが荒々しい沓音とともに静まり返った宮殿の奥へ奥へと吸い込まれていく。

 緋色の衣の上に纏った真っ白な薄衣が漆黒の闇に浮かび上がり、頭上に被った銀糸の衣が羽のように風にふわりと舞い上がると、厳重に閉ざされた門を守る屈強な番人たちの槍でその行手は遮られた。

 

「何者!

ここを国王陛下のおられる宮殿と知っての狼藉か!」

 

 首元に突きつけられた槍を白く細い腕が握りしめたと同時に、被っていた銀糸の衣の隙間から光る眼が覗き、驚いた番人たちはヒイッと声を上げた。

 

「まさか、まさか!

ほ、星読ノ巫女様…!」

 

「御無礼を、な、何卒、何卒お許しください!」

 

 先刻の威勢はどこへやら、番人たちはその屈強な身体をガタガタ震わせながら女の前に身体を投げ出した。

 身体中を震わせて怯える男たちの様をみつめる女の瞳は暗闇に美しく浮かび上がり、その妖艶さがさらに男たちの恐怖心を煽っていた。

 

「一刻の猶予もならぬ事態ゆえに参った!

国王陛下に星読ノ巫女が至急御目通りを願っていると申し上げよ!」

 

 静かだが空気を切り裂くような女の鋭い声音に番人たちは恐れ慄き、まるで雷に打たれたかのように這いつくばったまま動こうとしない。

 そんな様子に焦れた女がさらに詰め寄ろうとした時、門の騒ぎを不審に思ったのか中から人影が現れた。

 

「この騒ぎは何事か!」

 

 太り肉な女が重たそうな身体を揺すりながらやってくると、眼を吊り上げた険しい面持ちで番人たちに金切り声を投げかけた。

 恐れ慄いて微動だにしない番人たちを不審に思いながら、ふと視線の先に佇む女を見つけると、吊り上がった眼は一瞬にして驚きの色に染まった。

 

「あなた様は、星読ノ宮の…。

いえ、まさか…」

 

 女はごくりと唾を飲み込み、目の前に佇む小柄な女を食い入るようにみつめた。

 頭からすっぽり被さっている銀糸の衣で、顔はおろか髪の毛の一筋も見ることはできない。

 しかし衣の隙間から見える瞳の色は明らかに人のものとは思えない、美しくも恐ろしい光を帯びていた。

 

「あなた様はもしや星読ノ大巫女、朱ノ夜(あけのよ)様…?

朱ノ夜様ではいらっしゃいませぬか⁈」

 

 朱ノ夜と呼ばれた女はホッと安堵の息をつき、

 

「淡藤」

 

「まさかこのような夜更けに、しかもお一人で星読ノ宮からお出ましになられるとは…。

使いを寄越していただければこちらからお伺いいたしますものを!」

 

 淡藤という女は慌てて膝まづき深く首を垂れた。

 星読ノ宮へは国王の書状を携えて訪れることがある淡藤だが、直に大巫女に会ったことも話したことも未だかつて一度もない。

 大巫女の御座所は御簾の奥深くに設えてあり、大巫女がそこから出ることは稀であった。

 ただ国王からの使者には応対するもののそれはやはり御簾越しで、会話のやり取りは傍に仕える巫女たちが一切を取り仕切って微かな声さえ聞くことはできない。

 

ーーこのお方が、大巫女様…?

 

 星読ノ宮の大巫女は人の目に触れることがほとんどないために、年齢も体格も知らされることがないままに代替わりする。

 そして星読の一族でも強力な霊力を持つ者が後継者である大巫女となるのだが、大巫女になる者には生まれつきその証が瞳の色に備わっているという。

 淡藤が見た朱ノ夜の瞳も尋常ではない光を放っていたし、先代の大巫女・端白女(はじろめ)の瞳は真紅に光っていたと聞いたことがあった。

 目の前に立つ女はまるで少女のように小柄で触れたら折れそうなほど細く、袖から覗く指先は雪のように白い。

 凄まじい霊力で国を護る大巫女とは到底思えない淡藤であったが、朱ノ夜の瞳がいっそう厳しい光を放つと番人たち同様に身体が固まってしまうようであった。

 

「国王陛下に至急御目通りを願いたい」

 

 凛とした声に淡藤はハッと我に返り、

 

「あの、このような夜更けにでございますか…?」

 

 淡藤は少し狼狽えたように呟いた。

 

「国王陛下はすでに王妃様とともに奥宮にてご寝御あそばされました。

国王陛下への御目通りには然るべき順序というものがございます。

たとえ星読ノ巫女様といえど、かかる夜更けに唐突なお出ましにての御目通りは叶いませぬ」

 

 国王付きの女官としての威厳を見せる淡藤を、朱ノ夜は鋭い視線で射抜き声を張り上げた。

 

「それを承知で私はここにいる!」

 

 朱ノ夜の瞳がさらに光り辺りにザワザワとした風のうねりが起こり始めると、これは只事ではないと淡藤は息をのんだ。

 蒼き龍の守護を受けるこの国の繁栄と安寧を、星読ノ宮の奥深くで日々ひたすらに祈る大巫女朱ノ夜が、真夜中に護衛も付けずただ一人王宮へと駆けてきたのだ。

 

「…わかりました。

私が奥宮へお伝えしてまいります。

ーー誰か!

朱ノ夜様を南の間へお通しいたせ!」

 

 灯りの灯った宮殿南の間は昼のように明るく、侍女たちが運んできた手巾で汗ばんだ身体を清め白湯を口にすると、少しだけ緊張が解れたように朱ノ夜は小さく息をついた。

 これから国王陛下と王妃がお出ましになられるのだろう、慌ただしく動き回る侍女たちをみつめる朱ノ夜の瞳もまた一段と厳しい光を帯びている。

 淡藤が言ったようにこのような真夜中に、すでに寝御しておられる国王陛下を叩き起こすなど正気の沙汰ではなく決して許されるものではない。

 しかし朱ノ夜は今宵受け取ったのだ。

 星に現れた天の声をたしかに受け取ったのだ。

 そしてそれは一刻も早く国王陛下に伝えなければならない、とてつもなく重大なことだった。

 

ーー間違いない…。

 

 朱ノ夜は唇を噛み締めながら銀糸の衣の隙間から入口を凝視する。

 

ーー千年だ…。

 

 人が近づいてくる気配がして慌ただしい沓音が辺りに響く。

 

ーー千年の時を越えて現れる…!

 

「朱ノ夜」

 

 低く威厳ある声が静かに響くと、朱ノ夜は恭しく頭を垂れた。

 

「顔を上げよ」

 

 言われるまま顔をあげるといつもの温和な表情が一切消えた、険しい面持ちの国王龍砂王が仁王立ちで朱ノ夜を見下ろしていた。

 その横では王妃が心配そうに朱ノ夜をみつめている。

 淡藤からの報告を受けた国王夫妻はいったい何事か、まさか天から禍事のお告げが降ったのではあるまいかと、逸る気持ちを抑えながらこの南の間にやってきたのだった。

 

「朱ノ夜。

星読ノ宮から出ることの稀なそなたが、このような夜更けに一人でここに参るは尋常ならざること」

 

 緊張しているのだろうか、頬を紅潮させた龍砂王の声がいつもより上擦り掠れている。

 そんな龍砂王の顔を食い入るようにみつめていた朱ノ夜は、しばらくの間があって静かに口を開いた。

 

「国王陛下に申し上げます。

天眼を持つ者がこの世に誕生いたします」

 

「天眼…?」

 

 龍砂王はポカンとした表情で朱ノ夜をみつめた。

 

「天眼の子が眼を覚ますのでございます…!」

 

「まさか!」

 

 龍砂王は小さく叫んだ。

 

「まさか、まさか!

天眼の子だと…!?」

 

 龍砂王はさらに頬を紅潮させ、歓喜と恐れが入り混じったような表情で身体をわなわなと震わせ始めた。

 

「朱ノ夜!

それは、それは真実なのですか…!?」

 

 王妃もまた頬を紅潮させ声を震わせている。

 

「この千年もの間決して動くことなく在り続けた天眼の星が今宵、堕ちました。

この世界のどこかに天眼を持つ者が生まれてくることに間違いはございませぬ」

 

「なんと…。

天眼を持つ者が生まれるとは…」

 

 龍砂王は呟いてからハッとしたように、

 

「朱ノ夜、これは他国の者どもも知り得ておるか!」

 

「他国にも星を読む者が必ず王の傍に仕えております。

おそらくどの国にもすでに知れ渡っていることでしょう」

 

 天眼。

 その瞳でみつめた者を意のままに操り、その口から出た言葉は現実になるという最強の超常力であり、その力を持つ者はまるで神のごとく力で世界に君臨すると言われている。 

 古い歴史書の中にはおよそ千年前に天眼を持つ者が現れたという記録が残っており、不思議な力を持つ稀なる存在であることが書かれてあった。

 天眼の超常力は良くも悪くも周りへの影響力が凄まじく、天眼の子を手に入れた者は世界の王として君臨するといっても過言ではない。

 もし天眼の子を手に入れた国の王が賢者であるならば、国同士の争いはなくなり、それぞれの国は繁栄し安寧の世が訪れるが、愚者であったならば裏切りと争いの蔓延る混沌とした世界となる。

 千年前に現れた天眼の子はあろうことか愚王の手に落ちてしまったため、当時の権力者は天眼の能力を悪用し世界を争いの渦に巻き込み大混乱に陥れたという。

 世界滅亡を危ぶんだ善の国の騎士たちによって天眼の子は愚王とともに命を絶たれ、世界は寸前で滅亡の危機を脱したのだと歴史書に記されてあった。

 

『千年前の大惨事を再び繰り返してはならぬ』

 

 蒼き龍が守護するこの小さな国にも先人たちからの強い教訓として今に伝わっており、代々の国王はそのことを肝に銘じて国を統治していた。

 龍砂王もまた然りで、代々の王たちからの教えを忠実に守り善政を施しているため、小国であっても国は豊かに栄え民たちの国王と王家への敬愛と忠誠心はそれは深いものであった。

 世界にとって良くも悪くも強い影響を及ぼす天眼の子の誕生を、あれから千年もの間世界中が戦々恐々としながら固唾を飲んで様子を伺っていた今、ついにその時が訪れたことが告げられたのだった。

 

「朱ノ夜…」

 

 なんとか威厳を保とうとする龍砂王だが動揺を隠せず、絞り出したその声はひどく掠れている。

 

「まさか私の治世下で天眼の子にお目にかかることになるは思わなかったぞ…」

 

 ふふふと地の底から響くような低い笑い声に、王妃はギョッとして龍砂王をみつめた。

 

「国王陛下に申し上げます。

天の眼の星は堕ちたといえど、まだこの世に誕生しているとは限りませぬ。

まずは他国からの侵入を防ぐために国境警備の強化をお命じくださいませ。

そしてすぐに国中の妊婦をひと所にお集めになり、その身の安全をお計らいください」

 

「妊婦をひと所へ集めよと?」

 

「天眼の子がもし我が国に誕生するならば、他国は我が国に侵入し天眼の子を奪おうとするでしょう。

それは我々とて同じこと、他国に誕生するならば奪いに行かねばなりませぬ。

直ちに天眼の子を探しに行かねば取り返しのつかないことになりかねませぬ。

もし天眼の子が善の国の手に入らねば、世界は間違いなく千年前と同じ道を辿り禍の世になってしまうことでしょう」

 

 朱ノ夜の言葉を一つ一つ聞き入っていた龍砂王は勢いよく立ち上がると、

 

「蒼珠!」

 

 龍砂王が叫ぶや否や間を置くことなく扉が開かれ、漆黒の長い髪を靡かせて長身の男が現れた。

 

「国王陛下、蒼珠はここに」

 

 低い声が響き朱ノ夜は少し身構える。

 国王を護衛するために国中から選りすぐられた凄腕の剣士たちによって結成された精鋭部隊。

 その中でも騎士団長の蒼珠は他国にも名が知れ渡るほど剣の腕が高く、血気盛んな剣士たちを『蒼き鋼の流星群』と称される精鋭部隊にまとめ上げる若き剣士である。

 龍砂王に幼少期より仕え、王への忠誠心は誰よりも深く強い。

 王のためならどのようなことにも非情になれる蒼珠は、『凍える月』との異名で恐れられていた。

 

「蒼珠、今の朱ノ夜の話は聞いたな?」

 

 龍砂王の言葉に蒼珠は頭を垂れ、次いで朱ノ夜に向き合うと、

 

「天眼の子が目覚めると…。

星読ノ大巫女、その言葉に相違あるまいな」

 

「星読ノ大巫女の名において、相違ない」

 

 蒼珠の切長の瞳から注がれる射抜くような眼差しに、怯むことなく朱ノ夜が言い放ったと同時に、龍砂王の声が静寂を突き破るように轟いた。

 

「誰か宰相を呼べ!

国中の妊婦をこの錦都に集めるのだ!」

 

「国王陛下、それならばこの蒼珠に御下命ください!

すぐにでも手配いたします!」

 

「いや、蒼珠、そなたには話がある。

朱ノ夜とともに奥へ参るがよい」

 

 龍砂王があたふたとやって来た宰相に細々と言いつけている間、王妃がこちらへ来なさいというように二人に目配せをした。

 王宮の奥は奥宮と呼ばれ、ここにはごく近しい側近と侍女の他は何人たりとも近づくことの許されない、龍砂王と王妃の完全なるプライベートな空間であった。

 奥へ進むにつれ辺りは深い蒼に染まり、耳が痛くなるほどの静寂に包まれてゆく。

 重厚な扉が次々と開かれ立ち止まることなく進み、薄い帳の向こうにある扉を今度は王妃自らが開き中へ入ると、王妃は婉然と微笑みながら振り返った。

 

「さぁ、こちらへ」

 

「は…申し訳ございませぬ」

 

 普段冷静沈着で剛気な蒼珠も、さすがに龍砂王と王妃が二人で過ごす特別な部屋に通され、額に汗をしとどに浮かべながら恐縮しきりであった。

 一方の朱ノ夜は銀糸の衣の下でも顔色一つ変えることはなかったが、さすがに王妃の勧める椅子に座ることはせず、扉の傍に座り龍砂王が来るのを待った。

 

「朱ノ夜、そのようなところでなくこちらにおいでなさい」

 

「このような尊き場所に私たちが足を踏み入れること自体、恐れ多いことにございます。

こちらで国王陛下のお出ましをお待ち申し上げます」

 

 朱ノ夜の言葉に王妃は少し苦笑いを浮かべながら、

 

「朱ノ夜、そなたは我が国の至宝とも言うべき星読ノ宮の大巫女。

そなたが日々国王陛下をお護りし、国と民の繁栄と安寧を祈っているのですから、そのように遠慮せずともよいのですよ」

 

「星読ノ巫女は星読ノ宮の奥にて星を読み、天からの啓示を受けることが使命。

国王陛下及び王妃様、民を護り国の繁栄と安寧をひたすらに祈る身、表に出ることは決して許されておりませぬ。

事は重大とはいえこれ以上身分を弁えない行いをすれば、私は亡き端白女様からひどく叱られてしまうでしょう」

 

「端白女は優れた巫女でありました。

身罷ってしまった時はまるで太陽が割れてしまったかのように、国中が暗い悲しみの内に沈んでしまいましたね。

でも端白女はそなたという優れた巫女を私たちに遺してくれました。

でも見たところそなたはまだ若いと見えるが、星読ノ大巫女がそのように若者であるとは思いもよらなんだ」

 

 王妃は微かに微笑み、じっと朱ノ夜をみつめた。

 

「それにしても…」

 

 ふいに王妃の美しい微笑みが歪み口元から深い息が零れ落ちる。

 

「天眼の子が我が国王陛下の御代に誕生するとは、何という巡り合わせなのでしょう」

 

 天眼の子を巡って世界が滅びかけたあの千年前の恐ろしい出来事を思ってか、王妃は再び身体を震わせて呟いた。

 千年前を生き残った先人たちが再び同じような惨事が起こらぬよう、後世に伝え遺すべく記した歴史書は星読ノ宮の奥深くに納められている。

 その脅威をひしひしと感じながら星読ノ宮の巫女たちは粛々と天の星を読み、国の安寧と世界の平和を祈り続けてきた。

 朱ノ夜もまたその内の一人であり、これからも祈りの日々が続いていくものだと思っていたのだ。

 師であり母とも慕う大巫女・端白女が身罷った時、か細くなりゆく息の下でただ一つの気がかりはやはり天眼の子の存在であった。

 すべてのことを怠らず星読ノ巫女としての勤めを最期まで果たすように言いながら、歴代の大巫女でも最強とまで言われた強い霊力を秘めた紅い瞳から、ひと筋溢れ落ちた涙を朱ノ夜は一日たりとも忘れたことはない。

 最期に流した端白女の涙には国を、国王陛下や民たちを想う慈愛が込められており、今際の際に力強く握られた際に右手の甲に残った端白女の爪痕を見ては、自分に引き継がれた使命の重さを改めて思い知る朱ノ夜であった。

 やがて沈黙を突き破るような荒々しい沓音が響き渡り龍砂王が現れると、朱ノ夜と蒼珠は恭しく頭を垂れた。

 

堅苦しい挨拶など今は無用、そのような端にいては話もできぬ。

もっと近くに寄るがよい」

 

 金糸の衣を脱ぎ捨て長椅子にどっかと身体を預けた龍砂王は、王妃に冷たい水を持ってこさせると一気にそれを飲み干した。

 臣下たちに今後のことを事細かく指示してきた昂りもあるのだろう、しばらくの間眉根を寄せギュッと眼を閉じていた。

 物音一つしない静寂がどれほど続いたか、やがて龍砂王はゆっくりと口を開いた。

 

「天眼の子を探す旅に出ねばならぬ」

 

 龍砂王の言葉に三人の身体が強張った。

 

「国王陛下の仰せの通り、誰かが天眼の子を探す旅に出なければなりませぬ。

それも、今すぐに」

 

 朱ノ夜は静かに言い、龍砂王を真っ直ぐにみつめた。

 

「その御役目は私がお引き受けいたします」

 

「朱ノ夜!

そなたがおらねば誰が天の星を読み、国王陛下をお護りし、国や民を安寧に導くというのですか!

天眼の子を探すのは他国とて同じこと、もし攻め入ってこられたらこの国はどうなるのです!」

 

 王妃は青ざめて朱ノ夜の腕にしがみついた。

 

「王妃様、千年前の禍事を繰り返さないためにも、天眼の子は国王陛下が、この蒼き龍に護られた善の国である我が国が必ず手に入れなければなりませぬ。

天眼の子のことは亡き端白女様から星読ノ大巫女として私が託された一大事でございます。

星読ノ宮には力ある巫女たちが数多控えておりますゆえ、何もご心配には及びませぬ」

 

「国王陛下」

 

 王妃と朱ノ夜の会話をじっと聞いていた蒼珠が龍砂王の足元ににじり寄った。

 

「朱ノ夜とともに私もお遣わしください。

天眼の子を必ずや国王陛下の御前に連れてまいります!」

 

「蒼珠!何ということを!」

 

 王妃はさらに驚愕の悲鳴を上げた。

 国を護る大巫女ばかりか最強とまで謳われた騎士団の長までがいなくなって、この国はいったいどうなってしまうのか。

 ただでさえ他国の脅威に晒されている小国なのだ。

 

「天眼の子は私が探しにゆく」

 

 龍砂王の静かな声に三人の思考がぴたりと止まった。

 

「まあっ!

何を、何を仰せられます!」

 

 王妃のつんざくような悲鳴が部屋に響き、龍砂王の足元に縋りついた。

 

「朱ノ夜とともに私が参る」

 

「国王陛下の御身に禍が及んではいかがなさいます!

たとえ世界の一大事とはいえ、あなた様は国にとって何よりも大切な御方なのですよ!

国王陛下が国を出られることは決してなりませぬ!」

 

 龍砂王は頬を紅潮させ捲し立てる王妃の肩にそっと手を置いた。

 

「この国の行く末と千年後の未来があるかどうかは我らにかかっているのだ。

再び巡ってきた世界の一大事だと申すのに、王宮深くで護られている私ではない!

最強の霊力を持つ大巫女が一緒なのだ、何も案ずることはない」

 

 龍砂王は優しく王妃に微笑むと蒼珠を振り返り、

 

「私が旅に出ている間はそなたが私の影武者となるのだ。

ーーほら」

 

 龍砂王は蒼珠の長い髪を束ねていた紐をちぎり、金糸の衣をふわりと肩にかけた。

 

「同じような背格好をしているからかもしれぬが、こうしてみると私とそなたはよく似ているな」

 

 さすがに戸惑いを隠せずに狼狽える蒼珠を面白そうにみつめながら龍砂王は小さく笑った。

 

「蒼珠、私の命令に逆らうことは許さぬ。

私と朱ノ夜が天眼の子を連れ戻るまで、この国と民を守るのだ。

よいな」

 

 幼少期より片時も離れず仕えてきた龍砂王の命令は蒼珠にとって絶対であり、たとえそれが意に反していたとしても忠実に従うのが役目であった。

 天眼の子を探す旅が危険なものであることは火を見るより明らかだ。

 供に行くのが凄まじい霊力を備えているとはいえいかにも弱々しい大巫女とあれば、いかに龍砂王が自分にも負けず劣らずの剣の腕前を持っていても、心は不安で千々に乱れても仕方のないことであった。

 王妃と蒼珠の心配をよそに早々に旅支度を始める龍砂王を、王妃はなんとかして食い止めようと必死に考えを巡らせていた。

 龍砂王の妃になって五年、特別仲睦まじいわけではないがお互いに愛情を持って過ごしてきた。

 なかなか子宝に恵まれない自分を焦らないようにと慰めてくれる心優しい王であった。

 天眼の子さえ生まれなければ、それなりに心穏やかな日々が変わらず続いていくはずだった。

 王妃は天眼の子が心底恨めしく、そして危険な旅とはいえ龍砂王と行動を共にする朱ノ夜にも複雑な思いを抱き始めていた。

 星読ノ大巫女は年老いた老女とばかり思っていたのが、思う以上に年若い女であることに複雑な感情が溢れてきてしまう。

 銀糸の衣にすっぽり覆われてどのような容姿かさっぱりわからないのも、王妃の心を静かに乱す原因の一つでもあった。

 

ーー国王陛下…。

 

 慌ただしく準備する中にもどこか歓喜の表情が見え隠れしているような龍砂王の横顔を、王妃はぼんやりとみつめていた。

 

ーー国王陛下、あなたの横にいるのはどんな時もこの私のはず…。

 

 王妃は寝台の傍にある鳥籠にそっと近づいた。

 細かい細工の施されている金の鳥籠の中には、真っ白な羽が美しい大きな鸚鵡が首を傾げている。

 

ーー大巫女になる者は代々、たしか異形の姿をしているのだったかしら…。

 

 鸚鵡がつぶらな瞳で王妃をみつめ首を左右に振り始めた。

 

ーー朱ノ夜もまた恐ろしく醜い姿なのかもしれない。

その姿を見たら国王陛下も考えを改めてくださるかもしれぬ。

 

 王妃は頭に霧がかかったようにぼんやりと痺れたまま、そっと鸚鵡に囁いた。

 

「あの銀糸の衣を引きずり落としておしまい…」

 

 鳥籠の小さな扉がそっと開かれると王妃の言葉を理解したのだろうか、銀糸の衣めがけて鸚鵡が勢いよく飛び出して行った。

 

「鸚鵡…⁉︎」

 

 羽を大きくばたつかせながら突然飛び込んできた鸚鵡に、朱ノ夜たちは思わず声を上げた。

 

「クワァァァ!」

 

 鸚鵡の足が朱ノ夜の銀糸の衣を器用に掴み思いきり上へと飛び上がる。

 

「あッ!」

 

 朱ノ夜の悲鳴にも似た声が響き渡りその姿が露わになった時ーー。

 薄い栗色に光る長い髪が真っ白な肌に映えた美しい少女の姿がそこにあった。

 そしてそれ以上に驚かされたのは、左右の瞳がそれぞれ違う色に輝いていたことだった。

 

「瞳が…」

 

 右の瞳は澄んだ青であるのに、左の瞳は黄金色に似た薄い黄色の光を帯びている。

 見たことのない異形の姿に誰もが息をのみ、朱ノ夜から眼が離せなくなっていた。 

 

ーーこれが星読ノ宮の大巫女…!

 

 蒼珠はこれまで国を護ってきた歴代の大巫女たちの凄まじく強い霊力もさもありなんと、朱ノ夜の瞳をみつめながら思った。

 龍砂王を見ると同じように息をのみ、食い入るように朱ノ夜をみつめている。

 その頬は紅潮し、心なしか唇が震えているようにも見えた。

 王妃は鳥籠の傍に立ち尽くし、以前には見られなかった射抜くような視線を朱ノ夜に投げかけていた。

 

「クエェ!ギンシノ…ヒキズリ…!」

 

 鸚鵡は久しぶりに得た自由を楽しむかのように飛び回り、静まり返った部屋の中に嬉々とした声を何度も響かせるのだった。

 

                   1     完

 

 

 

以前少し書いていて途中で挫折してしまっていた作品に、改めて再チャレンジすることにしました❗️

 

初めてと言っていい、和風ファンタジー色の強い小説になります(*≧∀≦*)

 

大好きな米津玄師さんから挑戦することの素晴らしさ、いくつになっても挑戦していいのだということを改めて教えていただいて、よし❗️もう一度チャレンジしてみようと思ったまーたるです

(●´ω`●)

 

ショートストーリーではなく中編〜長編小説になります。

 

頑張って書いていきますので、時間がありましたらぜひ読んでいただけると嬉しいです❗️

ヽ(*^ω^*)ノ❤️✨

 

 

最後まで読んでくださりありがとうございます

(*´꒳`*)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『いじわるなマリア ーside Manー』

 あのひとの腕の中で俺は眠る。

 不思議なくらい深い眠りにつけるあの腕の中はもう俺にとってはなくてはならない世界で、今夜行くよというメッセージの送信を確認して仕事場を後にした。

 すでに階下に到着していたタクシーに乗り込み行き先を告げると、タクシーは坂道をゆっくりと上り地上へと滑り込む。

 真夜中だというのにきらきらしいネオンの光が眩しい街を抜けた頃、ポケットの中のスマートフォンが小刻みに震えた。

 

「わかりました。」

 

 いつもの素っ気ない返事に安心して俺はつい口元を緩ませる。

 あのひとに初めて会ったのは友人が主催するパーティー会場だった。

 わりとこじんまりとしたその店で働くスタッフの一人で、物静かに微笑みながら人の波を澱みなくスマートに動くあの人に俺は一瞬で目を奪われていた。

 周りに群がる女の子たちを適当にあしらいながら、目の端ではあの人を追っていたんだ。

 なぜなのかはわからない。

 細いフレームの眼鏡の下の瞳が言いようもないほどに深い慈愛に満ちていて、かと思えば妖艶にも見えたせいなのか。

 信じられないくらい仕事が立て込んでいて、ベッドに入っても虚な眠りしか訪れない苛立ちを密かに抱えていた俺は、引き寄せられるように空のグラスを持ってあのひとのそばへ近づいて行った。

 

ーーこのあと、時間ありませんか?

 

 湛えていた静かな微笑みが一瞬きょとんと崩れたが、すぐに元通りの笑みを俺に向けると、

 

ーーございますよ。

 

 短く言ってワインを湛えたグラスを差し出した。

 

ーーありがとう。

 

 グラスを受け取る時にさっき携帯番号を殴り書きしたペーパータオルをそっと握らせて、素知らぬふりで戻った俺は再び女の子たちに取り囲まれた。

 

ーーきっとあのひとなら…。

 

 あのときの俺は必死だったのかもしれない。

 誰かに縋りたかったんだ。

 言いしれぬプレッシャーが常に自分を取り巻く世界からひと時解き離れて、何者でもないただの『俺』を無条件で受け止めてくれる、聖母マリアのような存在がほしかった。

 二人きりで会ってから俺の『究極の我儘』を聞いたあのひとは、少しだけ驚いたような表情をしたがすぐに面白そうに微笑んで頷いてくれた。

 

ーーあなたの腕の中で眠らせてもらえませんか?

 

 初対面の人間から出た突拍子もない頼み事。

 月に一度、ただあなたの腕の中で眠らせてほしい。

 自分でもどうしてそんなことを言ったのだろうと今でも不思議でたまらない。

 ただ初めてあのひとの胸に頬を寄せ細い腕に抱かれて瞳を閉じたとき、心の底から安心して夢をみることもなく深い眠りに引きずりこまれたことが、今もなお心身に強く深く刻み込まれている。

 そして再び目を覚ましたときの爽快感は、さながら百年の眠りから目覚めた眠り姫のような新鮮さで、初めて会ったとき自分が感じたあのひとへの直感は正しかったのだと思い知った。

 それ以来必ず月に一度はあのひとの部屋を訪れ、小さなベッドで二人で眠る。

 

ーーもう少し大きなベッドに換えたほうがいいかしら。

 

 背の高い俺がもっとゆっくり眠れるようにとの提案だったが、この狭さがなければ俺の眠りは完成しない。

 

ーーそれじゃあ、あなたの腕の中で眠る口実がなくなってしまうでしょう?

 

 俺の言葉にしょうがないひとねと言うようにあのひとは少しだけ笑う。

 ベッドルームにあるチェストには2年前に亡くなったというあのひとの夫の写真が飾られている。

 なんとなく後ろめたい気持ちでフレームをそっと倒すと、

 

ーーなぜ?

 

ーーなぜ、って…。  

 

 狼狽えた口調を隠せぬまま口ごもる俺に、あのひとは凛として言い放つ。

 

ーー私たち、何も後ろめたいことなんてしていないでしょう?

ただ一緒に眠るだけ。

ただ、それだけ。

 

 肉体関係を持たずただ抱きしめ抱きしめられて眠るだけの関係なのだ、後ろめたいことは何一つとしてないとあのひとは静かに笑う。

 俺にも身体の奥から激ってどうしようもない夜がある。

 でもそんなときはあのひとの部屋を訪れることは決してしない。

 あのひとはそういった感情の対象ではないし、もしそうなってしまったときには絶対に引き返せないことが俺にはわかっているのだ。

 でも今になると寧ろ肉体関係を持っていた方が楽だったのかもしれないと思った。

 身体の結び付きよりも心の結び付きの方がもう後戻りできない、心の深いところまでいってしまうから。

 タクシーから降りた俺は宵闇に紛れてそっとマンションの一室に滑り込んだ。

 出迎えてくれたあのひとのやわらかな笑顔を見ると、思わず抱きしめずにはいられなくなる。

 

ーーやっと会えた…。会いたかった…。

 

 静かに抱擁を受け止めてくれるあのひとの髪に顔を埋め、清潔なサボンの匂いを思いきり吸い込む。

 一秒の時間を惜しむように肌に馴染むリネンのベッドへ潜り込むと、あのひとは俺を見下ろして不思議そうな顔を向ける。

 

ーーなぜここだとよく眠れるのかしら。

 

ーーどうしてだかわからないけど、あなたのそばだと眠れるんだ。

すごく安心して、この上なく気持ちよく目覚めることができるんだ。

 

 正直、自分にもなぜなのかはわからない。

 だけどそれが真実なのだからしょうがない。

 

ーーそんなの、お付き合いしている人にしてもらえばいいでしょう?

愛している人のそばの方がよく眠れるわ。

 

 そう言うあのひとの口調はいつものように静かで、そこに嫉妬の想いが込められていないことに俺はわけもなく苛ついた。

 友人でも恋人でもない関係の二人。

 かといってあのひとは母のような気持ちで俺に接しているわけでもない。

 そんなカテゴリーが邪魔になるくらいあのひとと俺の関係は特殊で、他にまたとない稀有な繋がりなのだと思っている。

 

ーー常識的に考えるとそうかもしれないけれど。

 

 つい子どもじみた口調になってしまうが、あのひとの前では自分を隠すことができない。

 

ーー恋人の腕の中が一番よ。

 

 にっこりと微笑む姿を少し憎らしくさえ思いながら、枕に埋めた顔を持ち上げてあのひとに静かに微笑みを返してやる。

 

ーーいじわるなことを言うね。

 

ーーいじわる?

 

 あなたはいじわるだ。

 無意識で俺を試そうとする。

 

ーーもういいから、早く眠りたい…。

 

 徐に引き寄せたあのひとの身体はしなやかでやわらかく、胸に頬を埋めると次第に身体の奥が痺れたように熱くなっていく。

 肉体関係を持っていた方が本当は楽なのだとわかってもいて、プラトニックな関係を続ければ続けるほど離れられなくなる危険性を孕んでいるのだということもわかっている。

 

ーーマリア様に抱かれているみたいだ。

 

ーーマリア様?

 

 やわらかな胸に頬を寄せそっと閉じていた瞳をあの人に向けてみる。

射るように。

決して逃さないという、強い光を放って。

 

ーー聖母マリアだよ。

 

 もう、わかっているんだ。

 どんなに取り繕っても隠せないよ。

 

ーーすべてを赦してくれる、聖母マリア…。

 

 頬を寄せたあの人の胸の奥で、どんどん速くなっていく鼓動が言わんとしていること。

 おそらく自分と同じ想いがそこにはある。

 この先に何があったとしても、おそらくこうして二人で眠る夜を過ごしているということ。

 それはお互いの望みであるという証のようで、俺の口元には自然と笑みが浮かび上がる。

 温かな肌の温もりとサボンの匂いに包まれて、俺はいつしかいつもの心地よい深い眠りの中に引き込まれていった。

 ほんの数時間の眠りにもかかわらず、目覚めた俺の身体は不思議なくらい軽くなっていた。

 カチコチと規則正しい時計の音が、再び身を置く戦場のような慌ただしい日常へ誘うかのように耳に響く。

 レモンを絞った冷たい水が入ったグラスを受け取り、少しずつ飲み干していく間に思考が次第に日常へと戻っていくのを感じた。

 ここで過ごす夜は俺にとって非日常なのだ。

 慌ただしい日常があるからこそ、この夜が自分にとってなくてはならない特別なものになっている。

 そう思うと慌ただしい日常がありがたくさえ思えるから不思議なものだ。

 玄関先まで見送るあのひとは変わらずマリアの微笑みを湛えている。

 俺の『究極の我儘』を受け止めてくれる、慈愛に満ちた聖母マリア

 そっと抱き寄せて額に軽く唇を寄せる。

 

ーーまた会いましょう。

 

 いつもの約束の言葉を聞いたあのひとの、少しホッとしたような微笑みを確かめて俺はドアを閉める。

 マンションの入り口に来た時同様に止まるタクシーに乗り込むと、車は静かな住宅街をゆっくりと走り出した。

 夜明け前の薄闇の空に張りつく月はまだ冴え冴えとした光で地上を照らし、俺はあのひとの温もりに満たされて喧騒ひしめく日常へと再び戻っていった。

 

                   完

 

 

 

 

今回の作品は前回書いた『いじわるなマリア』の続編で、男性側からみた不思議な二人の姿を書いてみました。

説明できない不思議な関係。

でもそこには二人にしかわからないたしかな絆があって、そういった関係があっても面白いんじゃないかなと書きながら思ったまーたるです

(●´ω`●)

二人が過ごす不思議な夜の場面を想像しながらとても楽しく書けました(о´∀`о)

皆さんにもその場面場面が目の前に浮かんできてもらえたら嬉しく思います✨

 

最後まで読んでくださりありがとうございます❗️

(●´ω`●)❤️✨

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『いじわるなマリア』

 私の腕の中で彼は眠る。

 カーテンの隙間から差し込む月明かりが冴え冴えとその無防備な寝顔を照らす。

 眩しいだろうとそっとカーテンに伸ばした私の腕は、しかし逃がさないと言わんばかりの力強さで押さえられていた。

 仕方なく彼の眠りが妨げられないように少し身体をずらして月明かりを遮ると、彼は幼子のような無邪気な寝息をたてて安心したように再び深い眠りへと落ちてゆく。

 さほど大きくもないベッドは、背の高い彼と二人横になればいっぺんにぎゅうぎゅうになってしまう。

 もう少し大きいベッドならゆっくり眠れるから買い換えようかと提案してみたけれど、口の端をひゅっと上げるいつもの笑みを浮かべながらやんわりと断られた。

 

ーーそれじゃあ、あなたの腕の中で眠る口実がなくなってしまうでしょう?

 

 いつからだろう。

 こうして私が彼を抱きしめて眠るようになったのは。

 どんな経緯で出会ったのか思い出せないほど自然の成り行きで今に至る、としか言いようがない。

 毎日忙しくてそれこそ休みもまともに取れないほどの彼が、一回りも歳上のしかも未亡人の私とこうして夜を共に過ごすことは冷静に考えても解せないことに思う。

 私自身、なぜ彼がやってくるのかさっぱりわからないのだ。

 月に一度だけふらりとやってきては私の腕の中で深い眠りを貪って帰ってゆく。

 肉体関係もなく、ただ抱きしめられて私の腕の中で幼子の寝顔を見せる彼は、一体何を思ってここへやってくるのだろう。

 そう思うと同時に私こそ一体どういう気持ちで彼をにこやかに迎え、そして一夜をともに過ごしているのだろうと不思議に思う。

 チェストの上に置かれている小さな写真立ての中で静かに微笑む夫がこんな景色を見たら、きっと彼はただでは済まされないくらいに殴られるのかもしれない。

 自他ともに認める愛妻家だった夫。

 少々度が過ぎる時もあったが今となればそれもいい思い出だ。

 とにかく今、この瞬間腕の中にいるのは夫ではない。

 月に一度の逢瀬しかできない、眠り姫ならぬ眠り君だ。

 胸の辺りに頬を埋め静かに寝息を立てる彼の顔をまじまじとみつめてみる。

 室内に滲み広がる月明かりの青が彼の寝顔を美しく照らし出すと、私は思わず感嘆の息を吐く。

 

ーー美しい人…。

 

 美しい人。

 その表現がこれほど似合う人に私は会ったことがない。

 まるで神話に出てくる神々のような端正な顔立ちで、その切長の瞳にみつめられると年甲斐もなく胸を高鳴らせてしまう。

 そんな私を知ってか知らずか、はたまた面白がっているのか、彼は部屋にやってくるといつも唇が触れるほどに顔を寄せてくる。

 

ーーやっと会えた…。会いたかった…。

 

 それは歳上の未亡人を弄ぶでもない、心から吐き出す彼の真実の言葉なのだと感じ、私は彼からの抱擁を受ける。

 少し身じろぎをしただけで彼の腕が私の身体に絡みつく。

 

ーーどうしてだかわからないけど、あなたのそばだと眠れるんだ。

 

 心底わからないといった表情で彼は言う。

 

ーーすごく安心して、この上なく気持ちよく目覚めることができるんだ。

 

 耳に心地良く響く彼の低い声をリフレインさせながら、額にかかる前髪をそっとかき上げた。

 誰をも魅了してやまない瞳はぴったりと閉じられて、安らかな寝息とともに時折ぴくりと動く目蓋にそっと触れてみる。

 

ーーそんなの、お付き合いしている人にしてもらえばいいでしょう?

愛している人のそばの方がもっとよく眠れるわ。

 

 非難でも何でもない、ただ純粋にそう思う疑問を口にすると、彼は少しだけ憮然とした表情を浮かべる。

 

ーー常識的に考えるとそうかもしれないけれど。

 

 拗ねた子どものように口を尖らす彼の横顔は、普段のクールな佇まいからは到底考えられないくらい幼く見える。

 そんな素の彼を知ることができるのはほんの一握りにすぎず、おそらく自分はその数少ないうちの一人であろうことに、私は心の奥からじわじわと込み上がってくる優越感を感じた。

 誰もが魅了されてやまない男の寝顔を間近で、さらに言えば腕の中で見下ろすことができるのは私しかいないと思った。

 

ーー恋人の腕の中が一番よ。

 

 微笑む私をじっとみつめて彼はゆっくりと息を吐いた。

 

ーーいじわるなことを言うね。

 

ーーいじわる?

 

 私の問いには答えずに、彼は徐に私の身体を引き寄せてベッドへ誘う。

 

ーーもういいから、早く眠りたい…。

 

 彼はいつものように私の胸に頬を寄せて瞳を閉じる。

 

ーーマリア様に抱かれてるみたいだ。

 

ーーマリア様?

 

 薄い青の闇に彼の顔がゆっくりと浮かび上がり、私は思わず声をあげそうになった。

 

ーー聖母マリアだよ。

 

 閉じられているとばかり思っていた彼の瞳は真っ直ぐに私を射抜いていて、その瞳に映る光の鋭さに思わず怯んでしまった。

 

ーーすべてを赦して包み込んでくれる、聖母マリア…。

 

 そう言って彼はゆっくりと瞳を閉じて、やがて安らかな寝息が私の耳に届いてきた。

 眼光鋭い彼の視線にぶつかると年甲斐もなくたじろいでしまう。

 ひと回りも歳上だという大人の余裕など、あっという間に吹き散らかされてしまうのだ。

 

ーーすべてを赦してくれる聖母マリア…。

 

 肉体関係を持たない月に一度だけの逢瀬。

 母でもない恋人でもない友人でもない、どのカテゴリーにも属していない説明不可能な関係。

 ただ腕の中で眠らせてほしい。

 彼曰く「究極の我儘」を無条件に許してくれる存在が、私。

 彼の無邪気な寝顔をみつめながら私はゆったりと笑った。

 

ーーいじわるはどっちかしら。

 

 彼の口元にたゆたう笑みはもうすでにわかっているはずなのだ。

 胸に頬を埋めるたびに伝わっているだろう私の鼓動を。

 どんなに努めて冷静な表情を取り繕っても、心は正直に伝わってしまう。

 早鐘のように高鳴る鼓動はすでに彼を受け入れ、彼の我儘すべてを赦している証なのだ。

 彼はそれをとっくに見抜いているにも関わらず、私をいじわるだと言う。

 私を聖母マリアのようだと言うけれど、彼の寝顔こそ聖母マリアのように慈悲深く、優しい光を湛えているように穏やかだ。

 

ーーいじわるはお互いさま。

 

 私は彼のやわらかな髪の毛を掻き上げてそっと額にキスをした。

 いつ私のマリアとしての役目が終わるのかはわからない。

 明日かもしれないし、十年後もこうして彼を腕の中に抱いているのかもしれない。

 でもなぜか確信めいて思う。

 この先お互いにそれぞれ愛する人ができたとしても、やっぱりこうして一晩を共に過ごしているだろうと。

 側からみたらきっとおかしな関係だが、私たちにはこれが自然な形なのだ。

 静かな部屋にカチコチと規則正しい時計の音が浸透してゆく。

 いつものように夜が明ける前に彼は起き出して、眠たそうな目を擦りながら玄関先で私を抱きしめるだろう。

 

ーーまた会いましょう。

 

 ひゅっと唇にいじわるな笑みを浮かべて。

 そんな関係も悪くない。

 腕の中の彼の無邪気な寝顔が仄暗い青の闇に鮮やかに浮かび上がり、いつものように飽きることなく眺めている私を、今夜も月の光が優しく照らしている。

 

                   完

 

 

 

不思議な二人を書いてみたくなりました。

 

大好きな米津玄師さんの音楽を聴いていると、私の中でたくさんの物語の種が芽吹き始めます。

 

想像の世界を果てなく広げてくれる米津さんの音楽に出会えたことに心から感謝でいっぱいです。

ありがとうございます✨

 

楽しんでいただけたら嬉しいです(●´ω`●)❤️

 

最後まで読んでくださりありがとうございます✨💕