まーたる文庫。

まーたるの小説・エッセイブログ🖋✨💕

『舎人童の恋』

 空の端が橙色の光に染まり始めると、青嵐(せいらん)は待ちかねたように家を飛び出した。

 早朝の初夏の風はまだひんやりと肌を伝い、揺れる草の朝露が足元を濡らすのも構わずに、青嵐は急き立てられるように先を急いだ。

 馬房に着くとまだ誰の姿も見えず、馬たちがブルル、ブルルと鼻を鳴らしながら馬場に開放される時を今か今かと待っている。

 青嵐は逸る気持ちを落ち着かせようと一頭一頭の鼻先を撫でてまわった。

 興奮気味の馬の鼻息は荒く、それはまさに自分の心の昂りのようだと青嵐は少し笑った。

 久しぶりに安宿媛(あすかべひめ)がこの馬場を訪れると知らせを受けたのは、青嵐が昨日帰宅する寸前のことだった。

 藤原不比等所有の馬場には駿馬が多数飼育されており、不比等をはじめ不比等の子どもたちも乗馬をしたり新しく乗る馬を物色しに度々ここを訪れる。

 青嵐はこの馬房の管理を任されている石鍬麻呂という老人の下で働いており、一緒に働く男たちの中では一番歳若く馬の扱いにも慣れているため何かと重宝がられていた。

 やがて少しずつ朝日が昇り始め、青嵐の髪の毛が太陽の光に照らされてきらきらと輝いた。

 青嵐がこの馬房で働くようになって早半年になる。

 元は平城京の東市にある小間物屋で働いていたが、ある女に見染められたことがきっかけで、とんとん拍子に今の仕事に就くことになった。

 

「わが主人がそなたに話があると仰せじゃ」

 

 美しいがどこか冷たさを感じる細面の女が青嵐に声をかけ、小間物屋の店主に何事か囁くと、店主は驚いたように何度も頭を垂れ、慌てて青嵐に早く行くように促した。

 訳もわからぬまま女のあとについて行くと、青嵐にはまるで縁のない大邸宅の中へ招き入れられた。

 誰もいない広間に一人取り残されてそわそわしていた青嵐の鼻先に、爽やかな青葉のような香りがふわりと漂ってきて、そっと振り返るとそこには驚いたように目を見開く少女の姿があった。

 

ーー時が止まるとは、まさにあのことを言うのだな……。

 

 身に纏った色鮮やかな衣に劣らぬほどの美しさに加え、少女の溌剌とした若さがさらに瑞々しさを増し、青嵐は生まれてこの方感じたことのない胸の高鳴りを感じて身震いしたことを今でも忘れられない。

 少し落ち着いたのか少女はゆっくりと近づいて青嵐の顔をじっとみつめたかと思うと、

 

「なんて綺麗な瞳……。

そなた、どこから来たの?」

 

 すぐ目の前に迫る少女の涼やかな瞳は漆黒に輝き、青嵐はその瞳に吸い込まれてしまうような錯覚を覚えてごくりと唾を飲み込んだ。

 回廊に人の気配がしてくると少女は少し慌てたように、

 

「いけない、お母様に叱られてしまう。

私がここにいたこと、しゃべってはだめよ」

 

 そう言っていたずらっぽく笑いながら少女が帷の向こうへ走り去ると、入れ替わるようにしてあの細面の女が現れた。

 その後ろで甘やかな香りを放ちながら微笑んでいる女が静かに青嵐の前に立つと、青嵐はその圧倒的な存在感に何も言えずただ女の顔をまじまじとみつめていた。

 

「頭を垂れよ、三千代様の御前ですよ」

 

 細面の女の尖った声に反射的に頭を垂れると、三千代という女は、ほほほと声を上げて笑った。

 

「よい。 

こちらが呼んだのじゃ。楽になさい」

 

 青嵐がそっと視線を上げると、口の端を上げて微笑みながら自分を見下ろしている三千代の視線とぶつかり、その刹那感じた言い知れぬ恐怖心にぞっとして再び頭を垂れた。

 嫋やかな微笑みを浮かべる美しい女であるはずなのに、心の奥底から得体の知れない何かがじわじわと湧き上がり、三千代に感じるこの恐怖心が何なのか青嵐にはさっぱりわからないまま三千代の言葉を待つ。

 

「そなたはどこから来やった。

波澌人(ペルシア人)か?」

 

 三千代の問いに頷く青嵐に、三千代はどこか満足そうに微笑んだ。

 

「しかし、波澌人にしてはその瞳の色は珍しいこと。

まるで澄んだ緑玉のような瞳をしているのだね」

 

 じっと注がれる視線から逃れようと青嵐は俯いた。

 父母はともに波澌人であるにもかかわらず、青嵐は薄い緑色の瞳で生まれついた。

 故郷では突然変異だとか神の生まれ変わりであるとか、成長するに従ってうるさくなってきた周囲の声から逃れたい気持ちもありこの国へやってきた青嵐であった。

 

「なんと凛々しく美しいこと」

 

三千代は目を細め視線を青嵐から外さぬまま細面の女に何事か囁くと、ゆっくりと身を翻しそのまま奥へと姿を消してしまった。

 呆気に取られている青嵐に細面の女が近づいて、こちらへと言うように目で合図した。

 長い回廊をいくつも曲がりたどり着いたのは何頭もの馬が飼育されている厩舎だった。

 故郷では毎日のように馬に乗り広い草原を駆けていた青嵐であるから、馬たちの息づかい、カッカッと鳴る蹄の音に一瞬にしてあの緑に光る草原を思い出し胸が高鳴った。

 

「馬の世話をする舎人の人手が足りず、三千代様にはそなたにここで働くようにとの仰せじゃ」

 

「私が?」

 

 これほどの大邸宅だから他にも人はいようものなのに、小間物屋で働いていた素性も知れぬ者をわざわざ引き入れて馬の世話をせよとは一体どういうことなのか。

 訝しく思って青嵐が尋ねようとすると、

 

「こちらは藤原不比等様のご邸宅、先ほどのお方は御正室の三千代様じゃ。

宮の外で働くおまえでもその御名は聞いたことがあろう」

 

 青嵐が下働きしていた小間物屋は数多の人々が行き交う左京東市にあり、忙しい毎日を送る中で平城宮奥に君臨する女帝や皇族、その周りに侍る貴族など雲の上の存在で自分にはまったく関係のないことだと思っている。

 しかし多くの商人や客との会話の中で、その雲上人たちの話題が上るのはままあることであった。

 雲上人たちが決める制度によって下々の暮らしは左右されるのだから、日々の暮らしにあくせく追われながらも宮城の奥で決められていることには皆気にならざるを得ない。

 右大臣藤原不比等の名は青嵐も知るところであったが、まさか自分がその不比等の屋敷の厩舎で働くことになるとはまさに青天の霹靂であった。

 

「ここにいる馬は不比等様だけでなく、御子様方もお乗りになられる駿馬ばかり。

石鍬麻呂という男が取り仕切っているので、万事かの者に指示を仰ぎ粗相のないように馬の世話に務めなされ」

 

「お待ちください!」

 

 厩舎の中に漂う臭いに耐えかねたのか足早に去ろうとする女を青嵐は呼び止めた。

 迷惑そうに振り返った女に少し頭を垂れながら、

 

「なぜ三千代様は私をここへ?

小間物屋で働いているとはいえ素性もよく知れぬ異国の者である私を、三千代様が藤原家のような高貴な家に引き入れるのにはどんな思惑があるのですか?」

 

 女は少したじろいだように後退りしたがコホンと咳払いすると、

 

「ここでは三千代様のお言葉は絶対なのです。

三千代様に求められることはこの上ない名誉なこと。

おまえは言われた通り、心を込めて駿馬たちの世話をすればよいのです」

 

 わかりましたねと言うように青嵐の顔をひと睨みして女は足早に厩舎を出て行った。

 

 元々馬の扱いには慣れており素直で気立の良い性格の青嵐は、数日も経てば気難しいと評判の石鍬麻呂にも一目置かれる存在になっていた。

 その見目麗しい容姿を使って女たちの気を引き、品物をたんと売りつけろという小間物屋店主の下で働いていた頃を思うと、こんなに幸せなことはないとしみじみ思う青嵐であった。

 数日降り続いていた雨が止み、ようやく馬場に放たれて嬉々として走り回る馬たちの嘶きを聞きながら馬房の掃除をしていると、石鍬麻呂が慌ただしく入ってきた。

 

「青嵐、これから不比等様の御子息が参られる。

馬たちを一旦馬房に戻してくれまいか」

 

不比等様の御子息が?」

 

「そうだ。房前様と麻呂様、安宿媛様がいらっしゃると知らせがきてな」

 

安宿媛様?」

 

 青嵐は不比等の息子である房前と麻呂にはこれまで幾度か会ったことがある。

 長身で目元涼やかな房前は父不比等にそっくりだと評判の美男子で、弟の麻呂はくりっとした愛嬌のある瞳で女たちを夢中にさせる恋の手練れとして名を馳せている、兄弟して誰もが夢中になってしまうほどの男であった。

 しかし今石鍬麻呂から聞いた『安宿媛』とはいったい誰のことなのか。

 

「おまえ、知らなんだか?

安宿媛様は不比等様と三千代様の御息女じゃ」

 

 あぁ、そうだったと青嵐は頷き、石鍬麻呂の指示を受け馬たちを馬房に戻すために馬場へ飛び出した。

 まだ馬場の中で自由に動き回りたい馬たちを宥めながら、青嵐は一頭一頭に話しかけながら丁寧に戻していく。

 

ーー安宿媛様には今日初めてお会いすることになるのか……。

 

 不比等鍾愛の娘で三千代自慢の娘である安宿媛は、文武帝の御子首皇子と同い年の美しく聡明な姫君であると専らの評判である。

 父帝に瓜二つという端正な容貌の首皇子元明女帝にこよなく愛されている孫君であり、まだ歳若いとはいえいずれは帝として即位する藤原一族にとっても希望の皇子であった。

 数ヶ月前まで雲上人たちのことはさっぱりわからなかった青嵐も、舎人童として不比等の厩舎で馬の世話をするようになってからはその内情にずいぶん詳しくなった。

 その情報は共に働く同輩たちや異国の神秘を漂わせる青嵐に色目を使って近づいてくる女たち、そしてしばしば馬場を訪れる不比等の息子たちからもたらされるものもあった。

 不比等の息子たちは側から見てもその結束は固く、しかしそれぞれに個性的な性格の四兄弟であった。

 馬場を訪れるのはだいたい次男の房前、末弟の麻呂。

 物静かな房前と華やかに明るい麻呂の組み合わせは一見ちぐはぐに見えるが、馬が合うというのか兄弟の中でも特にお互いが自分を飾らずに付き合えるような雰囲気であった。

 青嵐が厩舎で働くようになり初めて二人に会ったとき、青嵐の美貌に一早く目をつけたのが麻呂であり、

 

「惜しや、おまえが女であったなら」

 

 唇が触れそうになるほど顔を近づけて心底悔しそうに、いや、女でなくともそなたならかまわぬがと呟いた麻呂に、房前は後ろに佇んで仕方のないやつだと言うように静かに微笑んでいたことを思い出す。

 それ以来房前も麻呂も、この馬場に来ては駿馬を見るというよりもむしろ青嵐に会いにきているかのように、しばらく滞在しては何やかやと談笑していくのだ。

 ちょうど馬を全部馬房へ戻したとき、華やかな笑い声が辺りに響き房前と麻呂が現れた。

 廟堂の権力者の息子とあって二人が身に纏う雰囲気は威風堂々としており、石鍬麻呂はすでに額に大汗を浮かべて対応している。

 

「おお、青嵐!」

 

 麻呂が青嵐を見つけ手を上げると、傍に静かに佇んでいる少女に何やら小声で囁いた。

 

ーーあっ……。

 

 青嵐は驚いて目を見開いた。

 麻呂の横にいる少女にはたしかに見覚えがある。

 

ーーあのときの……!

 

 初めて不比等邸を訪れたあの日、広間で三千代を待つ間に出会った少女に間違いない。

 吸い込まれそうな漆黒の瞳が美しいあの少女が不比等鍾愛の安宿媛であったのかと、青嵐はにこやかに近づいてくる少女から視線を離せないまま息を飲んだ。

 

「今日は妹も一緒なのだ。

珍しく義母上のお許しも出たのでな」

 

 いたずらっぽく笑う麻呂に安宿媛も嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

安宿媛は馬が好きでな、以前はよく馬にも乗っていたのだがなぁ」

 

「ただでさえお転婆な娘だと義母上も心配されておられるのだからな、万が一怪我でもしたら一大事だとお許しにならなかったのだろうよ」

 

 房前の笑みを含んだ言葉に安宿媛は形の良い唇を尖らせて、

 

「まあ、あんまりな仰りようですこと。

でもいいんですの、こうして久しぶりに馬場を駆けることができるのですもの!

楽しみで昨夜はすぐに寝つけなかったのですよ」

 

 そう言って朗らかに笑う安宿媛は心底嬉しそうで、その自然体の姿には高貴な姫君にありがちな傲慢さも取っ付きにくさも感じられず、青嵐は思わずその笑顔に見入っていた。

 そんな青嵐だから房前と麻呂のどこか意味深な視線に気がつくことはなく、安宿媛の方へ吸い寄せられるように一歩、また一歩と近づいていく。

 青嵐の姿を見た安宿媛も、あっと小さく声を上げた。

 

「そなた、あの時の……。」

 

「青嵐と申します。

あの時は安宿媛様と存じ上げませず、ご無礼をどうかお許しくださいませ」

 

 足元に平伏しながら謝る青嵐の肩に安宿媛の手がそっと触れると、青嵐の身体中を得体の知れない電流のようなものが走り抜けた。

 その痛みにも似た何かに驚いた青嵐ががばりと顔を上げるのに、安宿媛もびっくりした表情で、しかしとても愉快そうに、

 

「そなたとは何か縁があるのかしら。

いいわ、あの時の無礼は許してあげましょう。

その代わりーー」

 

 安宿媛は青嵐の手を取り馬房へ駆け出した。

 

「お兄様、青嵐をお借りしますわ。

この者に私の馬を選んでもらうの!」

 

 屈託のない笑顔の安宿媛と急激に湧き上がる安宿媛への恋慕の想いに戸惑いを隠せない青嵐が、手を取り合って馬房へ駆けて行く後ろ姿を見ながら、房前と麻呂はチラリと視線を交わし合った。

 

「青嵐、そなたは馬の扱いがとても上手で丁寧だそうね。

お兄様方がとても褒めていらしたわ」

 

 馬房の中では馬たちが早く馬場に駆け出したいのか鼻息を荒くしているが、安宿媛は恐れることなく馬の鼻先を優しく撫でている。

 安宿媛の優しい心が伝わるのか、荒ぶりを見せていた馬は次第に穏やかになっていった。

 

「お兄様も仰っていたけれど、私、本当に久しぶりに馬に乗るのよ。

昔はよく馬場に来ては馬に乗っていたものよ。

健やかな身体を作るには乗馬がいいとお父様もお母様も勧めてくださっていたのに、いつからか私が馬に乗ることを良しとされないようになって」

 

 ずっと部屋の中で書物を読んだり書き物をしたり、つまらなかったわと安宿媛は唇を尖らせた。

 長く禁じられていた乗馬を最近になって許してもらえたことは些か疑問ではあったが、そんなことよりも馬の息づかいを感じながら風を切って駆けられる喜びの方が安宿媛には大切であった。

 

「厩舎の中の馬ならばどれでも好きな馬を選んでいいとお父様が仰ってくださったの。

そなたに選んでもらうのなら、きっと素晴らしい馬に違いないわ」

 

「私が安宿媛様の馬を⁉︎」

 

 驚く青嵐に安宿媛は当たり前だとでも言うように真顔で頷いた。

 一頭一頭吟味して安宿媛自身にも馬に触れてもらい、青嵐が選んだのは一番最初に荒ぶりを見せていた馬であった。

 馬房の馬たちの中でも気性の荒い馬で青嵐にしか懐かずにいたにもかかわらず、安宿媛がほんの少し触れただけで大人しくブルル、ブルルと鼻先を嬉しそうに擦り付けてくる。

 

「あぁ、やっぱり。

私もこの馬だと思っていました」

 

 安宿媛は馬の顔に頬擦りをして嬉しそうに微笑んだ。

 安宿媛が背に跨っても馬は嫌がりもせず、安宿媛の指示通りに歩を進めていることに青嵐は驚くばかりであった。

 あの暴れ馬が従順になっていることはもちろんのこと、何よりも安宿媛の手綱捌きの上手さは目を見張るものがある。

 およそ高貴な姫君には見られないような無邪気な大胆さを見せている安宿媛は、青嵐にとって眩しい太陽のようであった。

 それ以来、安宿媛は頻回に馬場を訪れるようになった。

 姿を現す時はたいてい房前と麻呂が同行するのだが、嬉々として広い馬場を愛馬とともに駆け抜ける安宿媛の傍には必ず青嵐を付けて、自分たちは馬場の外に設えた四阿でゆったりと茶など飲んでいる。

 

「馬に関しては青嵐に任せておけば間違いはないからな」

 

房前の言葉に麻呂もにこにこと頷いて、

 

安宿媛をよろしく頼む」

 

 兄たちがそう言うのだからと、安宿媛も遠慮なく生き生きとした表情を輝かせながら馬上の人となるのだ。

 

「あぁ、よく走ったこと!」

 

 安宿媛は息を弾ませながら愛馬の首をポンポンと優しく叩き、颯爽と降り立った。

 手綱を渡された青嵐はそのまま馬を解放し仲間の元へ走らせた。

 のどが渇いたという安宿媛の元へ冷たい水が入った瓶と器を持って行くと、安宿媛は馬場の外れにある小さな草原に寝転んでいた。

 

安宿媛様⁉︎」

 

 青嵐が慌てて近づくと安宿媛は空を見上げて流れる雲をじっとみつめていた。

 

「お疲れになられたのではありませんか?

今日は特によく駆けられましたような」

 

 水を湛えた器を安宿媛に捧げ持ちながら青嵐は言った。

 安宿媛はゆっくりと起き上がり差し出された器の水を飲み干してから、

 

「もうここへ来ることが難しくなりました」

 

 真っ直ぐに前を向いてぽつりと呟いた安宿媛からは寂しさや悲しみというような感情が一切感じられず、青嵐はただ黙って安宿媛をみつめながらその言葉を心の中で繰り返していた。

 

ーー安宿媛様がもう、いらっしゃらない……?

もうお会いすることができないと……?

 

 安宿媛の言葉が何度も繰り返されるたび、青嵐の胸の鼓動は次第に早くなっていく。

 

ーーでは安宿媛様はいよいよ皇太子様のもとへ……。

 

 安宿媛は今年十六歳を迎える。

 美しく聡明な少女だとすでに噂高い安宿媛であったが、こうして身近に接するようになってみると高貴な生まれの者にありがちな傲慢さが微塵もない、誰にでも気さくで屈託のない人柄だということを青嵐は知った。

 よく笑い馬が好きで、何よりも自由が好きだということも知ることができた。

 一緒にいればいるほど安宿媛の存在が自分の中で日増しに大きくなっていく。

 いつしか青嵐は安宿媛を主人としてではない、一人の女人として愛するようになっていた。

 自分はただの下僕にすぎず、本来ならこうして触れようと思えば触れられる距離にいることも許されないはずなのだ。

 それなのに、自分はなんだってこんな大それた想いを抱いてしまったのか。

 青嵐は安宿媛への想いが自分が思うよりずっと深く激しいことに動揺した。

 異国に来て青嵐が初めて知った恋。

 決して実ることのない恋。

 いつしか青嵐の頬に涙が伝っていた。

 

ーーそうか、俺は、こんなにも安宿媛様のことを……。

 

 初めて会ったあの日には青嵐の心はとっくに安宿媛のものになっていたのだ。

 ここにいれば頻繁でなくとも時折り訪れがあるかもしれない。

 ほんのひと目でも鮮やかで美しい安宿媛の笑顔を見ることができるのなら、青嵐にとってこれほど幸せなことはなかった。

 

「……なぜ泣いているの?」

 

 安宿媛は涙に濡れた青嵐の頬にそっと触れた。

 

『なんて綺麗な瞳……。

そなた、どこから来たの?』

 

 そう言ったあの日と同じ吸い込まれそうな漆黒の輝きを放つ瞳で、安宿媛は青嵐をじっとみつめた。

 

「ねえ、青嵐。

そなたの国の話を聞かせて」

 

「私の国の話を?」

 

「いつか少し話してくれたでしょう?

緑豊かな土地に住み、一日中馬で駆けていたって」

 

 微笑んだ安宿媛のその瞳はまるで、その見知らぬ土地の豊かな緑の波を前にしているかのようにキラキラと輝いて見えた。

 見渡す限りの草原に果てはなく、青嵐は一日のほとんどを馬上で過ごしたと言っていい。

 旅の行商一家に生まれたことで国中はもちろん、異国から異国への旅の人生を送って今ここにたどり着いたのだと言った。

 青嵐という名前は船の中で出会った呪い師の老人につけてもらった名前で、国に帰れば本当の名前があるのだとも。

 

「そなたの本当の名前は何というの?」

 

「……シャハーブ」

 

「シャハーブ?」

 

「この国の言葉では『流星』という意味です」

 

「流星……。

シャハーブ、とても素敵な名前ね」

 

 うっとりとした表情で目を閉じる安宿媛の脳裏には、緑なす草原に寝転びながら煌めく星々がひしめく満天の星空を見上げている自分の姿が浮かんでいるのかもしれない。

 だが故郷への想いが淡々とした口調の端々に滲み出る青嵐の話を聞くうちに、安宿媛からは次第に笑みが掻き消されていった。

 

安宿媛様……?」

 

 笑顔の消えた安宿媛を案じるように、青嵐がおずおずと顔色を伺った。

 

「私もこの馬に乗り、そなたの国にあるという果てのない草原をずっと駆けていられたらどんなにいいでしょう……」

 

 呟いた安宿媛はゾッとするくらい寂しそうに笑い、しかしそれはその後青嵐が忘れることができないほど神々しく美しかった。

 

「青嵐、私をその草原に連れて行っておくれ」

 

 安宿媛の瞳は力強くまっすぐに青嵐に向けられていたが、触れた指先は頼りなく微かに震えていた。

 青嵐はその時厩舎の者たちが噂していた通り、安宿媛の婚儀が決まったのだと思った。

 文武帝の忘れ形見である首皇子

 青嵐は首皇子の姿を見たことはないが、石鍬麻呂によると長身で美しいがどこか陰のある大人しい皇子であるという。

 生母の宮子娘は安宿媛の異母姉にあたり、安宿媛とは叔母・甥の間柄とはいえ同じ年の二人の結婚は、生まれた時からすでに決まっている運命だった。

 青嵐には難しいことはさっぱりわからないがただ一つわかるとするならば、首皇子安宿媛の結婚は藤原一族の命運を賭けたものであるということだ。

 天真爛漫で何事も動じない性格の安宿媛も、婚儀が正式に決定し間近に迫ってきたとあって、気もそぞろに落ち着かなくなっているのだろう。

 一族の期待と命運を背負っての結婚は、安宿媛の心に想像以上のプレッシャーを与えているのかもしれなかった。

 

安宿媛様……」

 

 身体の震えを隠せなくなっている安宿媛を青嵐は思わず抱きしめた。

 濡れたように艶やかな黒髪からは甘やかな匂いがして、青嵐は自分の中の猛りがドクン!と急激に大きくなっていくのを感じた。

 青嵐の逞しい腕の中で華奢な安宿媛の身体はすっぽりと隠れてしまうようだ。

 今腕の中にいる安宿媛藤原不比等の娘、皇太子首皇子に嫁ぐ高貴な姫君ではなく、馬を愛し自由に憧れる一人の少女であり、青嵐が心から愛するただ一人の女人なのであった。

 抱きしめる腕に思わず力が入り、安宿媛は思わず甘やかな吐息を漏らす。

 

「も、申し訳ございませぬ!

わ、私は、私は……!」

 

 ハッと我に返り顔面を蒼白にさせ慌てて身体を離そうとする青嵐を、安宿媛は離すまいとさらに抱きしめる。

 

「しばらく、このままで……」

 

 安宿媛は、ふうっと大きく深呼吸した。

 

「牧草のあたたかな匂いがする……。

おまえの腕の中はとても落ち着くのです」

 

 幼子のように安心しきった表情で瞳を閉じている安宿媛に、青嵐は自分でもどうすることもできない恋心を焦がしながら、抱きしめる腕に力をこめていった。

 

 

 

 緑の波を風が揺らし、身を寄せる二人の姿が時折り垣間見えるのを房前と麻呂は無言でみつめていた。

 辺りは人払いをさせているため兄弟の他に人影はない。

 

「兄上、よろしいのか?」

 

 チラリと房前を見やりながら麻呂は言った。

 婚儀を控えている異母妹が厩舎勤めの舎人童と身体を寄せ合っているのだ。

 異母妹にとって異性と抱き合うなど初めてのことに違いなく、恋の手練れとして数多の女たちと浮名を流している麻呂はそれだけにいささか心配でもあった。

 馬場に通うようになった安宿媛はいつからか青嵐を目で追うようになっていた。

 おそらく安宿媛自身気がついていないのかもしれないが、間違いなく安宿媛は青嵐に想いを寄せているのだと麻呂の勘がそう言っていた。

 男女の色恋事がわりと鷹揚である時代にもかかわらず、三千代は徹底して安宿媛の周りから男はもちろんのこと色恋事に関わる話をも遠ざけた。

 そばに侍る侍女もすでに年配に差し掛かっている女や、色恋に疎そうな清廉な女たちで固めていてる。

 安宿媛にそっと恋文を渡し逢瀬の手引きをする者がいないように、三千代の厳しい目が常に安宿媛を監視していたのだった。

 だからこそ安宿媛にとって青嵐は初恋の男であることに間違いなく、安宿媛の青嵐への想いが純心であればあるほどその先が案じられてならなかった。

 隣で顔色一つ変えずに腕を組む房前がふと笑みを浮かべたのに麻呂はギョッとした。

 

安宿媛が入内前に恋を知り何よりだ」

 

「あ、兄上、何と⁉︎」

 

 麻呂は驚いて房前をまじまじとみつめた。

 常に冷静沈着であまり表情を変えることのない房前にしては珍しく、面白そうな笑みを浮かべながらも安宿媛と青嵐から視線をはずさない。

 

「義母上はこれまで安宿媛に男なら童でさえも寄せ付けず、外出もろくにお許しにならない徹底ぶりであったのに、なぜ今になって安宿媛をこうして自由に外出させるようになったのだと思う?

入内が決まり間近に迫っているというのにだ」

 

「それはこれから先、安宿媛の環境の変化を思いやり、今のうちに少しでも自由に過ごさせてやろうと父上と決められたからではないのですか?

皇太子のもとに嫁ぐわけですから、そう簡単に出歩くこともままならぬ身になるのですからね」

 

 親心ではないのですかと言う麻呂に房前は優しい笑みを投げかけ、そのことが麻呂をさらに困惑させた。

 一体、兄は何を言いたいのかさっぱりわからぬといったような麻呂の困惑顔に、房前はたまらずクックッと小さく笑い出した。

 

「一体何だと言うのです?

嫁ぐ娘を想う母心以外に何か思惑でもあると言うのですか?

義母上にとって安宿媛は愛し子、それこそ掌中の珠ではありませぬか」

 

 三千代には不比等の妻になる前に美努王という皇族と結婚し、その間に三人の子をもうけていた。

 それぞれに母らしい愛情を傾けているが、不比等との間に生まれた安宿媛にかける愛情は特別で、美しく聡明に生いたった安宿媛に寄せる三千代の期待は側から見ても大きいものだった。

 麻呂は眉尻を下げた常に笑顔の三千代を思い浮かべた。

 父不比等が誰よりも信頼を寄せる妻は三千代であった。

 他の妻たちなど到底及ばぬくらいの強い絆で結ばれているにもかかわらず、その態度はいつも鷹揚で、三千代は不比等の妻たちやその子らにも細やかな気遣いを絶やさない。

 文武帝の忠実な乳母として持統女帝からの厚い信頼を得て、以降後宮に絶大な力を持ち続けている女傑とは思えないほど優しい女なのだ。

 

ーー義母上に何か思惑が……?

 

 麻呂は房前の何かを含んだ物言いが気になって仕方がない。

 

「兄上、何かご存じなら教えてくださいよ。

義母上に何の思惑があってそれまでの安宿媛への態度を改められたのか」

 

 それまでの房前の笑みが急にフッと真顔になり、

 

「……県犬養広刀自」

 

「広刀自?

皇太子のもとに上がった、あの広刀自ですか?」

 

 麻呂は素っ頓狂な声を出して訳がわからないといったように首を捻った。

 皇太子首皇子にはすでに一人側に侍る女がいた。

 県犬養広刀自というその女は三千代の一族から選ばれて、首皇子もことの他広刀自を寵愛しているという。

 入内前にしてすでに首皇子の寵愛を競う女がいることに不比等も房前たち兄弟も不安を覚えたが、当の安宿媛はそのことについて何の疑問も持たずにいることが幸いといえば幸いでもあった。

 帝をはじめ皇族たちや他の貴族たちの手前、あまり安宿媛ばかりを前面に押し出すと不比等としても決まりが悪い。

 そこで安宿媛にとって害にならないような女を首皇子に侍らせようと、三千代の一族から選ばれたのが広刀自という訳である。

 万が一先に子が生まれても三千代の同族ならばいかようにもできるとの算段だったのだが、思いのほか首皇子の寵愛が深くなってしまったのは大誤算であった。

 

「皇太子は広刀自をそれは御寵愛だ。

何かあると広刀自を側に召して片時も離されぬ。

このままいくと御子のご誕生もお早いことだろう」

 

「たしかに皇太子は広刀自を御寵愛されておられますが、安宿媛が入内するとお聞きになった皇太子はそれは喜んでおられましたよ。

ずっと待っていたのだと仰られて」

 

 麻呂はほんのりと頬を赤く染めていた首皇子の言葉に嘘はなかったと思っている。

 幼い頃からいつも一緒に過ごしていた二人ではあるが、そこには首皇子安宿媛にしか醸し出せない独特の雰囲気を感じた麻呂であった。

 首皇子安宿媛を心から信頼していることは誰の目からも明らかで……。

 

「あっ……!」

 

 麻呂はハッと目を見開いて房前を見た。

 房前はやはり顔色一つ変えず、ただ目はようやく気がついたかと鋭い視線を寄越している。

 

ーーそうか、皇太子と安宿媛の間には……。

 

 首皇子が広刀自に抱く生々しい愛欲が、安宿媛へは全く見受けられないのだった。

 首皇子は生母宮子娘が精神の病に臥してからこの方、三千代の手許で安宿媛とともに成長してきた。

 共に過ごしてきた長い時間の中、二人の間に育まれたのは男女の愛ではなく姉弟のような親愛であった。

 いずれ結ばれることが運命だと誰もがわかっていて、恋に長けた者たちが周りに多くいたにもかかわらず、男女が成長の過程で抱く感情に何の手立ても打たなかったのが今に思えば手痛い落ち度だと麻呂は思った。

 少しだけ垣間見た広刀自は華奢な身体つきだが女の艶かしさが際立つ美少女で、首皇子でなくても男が放っておかないだろうと麻呂は思う。

 安宿媛も父母ゆずりの美貌ではあるが、いかんせん男を惹きつける艶かしさに乏しかった。

 首皇子の広刀自への思いがけない寵愛ぶりを間近に見た三千代は、今更ながら狼狽したのではないか。

 

ーーだとすると、義母上はなぜ安宿媛を頻繁に馬場へ送り出したのか……。

 

「青嵐」

 

 房前の呟きに麻呂はゆっくりと天を仰いだ。

 

「……兄上、まさかとは思いますが、義母上はあの二人のことを……」

 

「……ご存じだろう、何もかも。

青嵐をここに連れてきたのは他でもない、義母上なのだ。

青嵐が安宿媛を思慕しているのも、安宿媛が密かに青嵐に恋焦がれていることもすべてお見通しだろうよ」

 

「義母上は何が目的で二人を安易に近づけたのですか?

万が一間違いがあり取り返しがつかぬことにでもなったなら……」

 

「……青嵐の役目も間もなく終わる」

 

 緑の波に見え隠れする青嵐と安宿媛の抱き合う姿が目に飛び込んで、麻呂は二人を離すべく駆け出そうとした。

 

「しばらくそのままにさせておけ」

 

「何ですって⁉︎」

 

 再び麻呂は素っ頓狂な声で房前を食い入るようにみつめた。

 

「青嵐が安宿媛にこれ以上のことをしでかしてもよろしいのですか⁉︎」

 

「青嵐はそんな男ではあるまい。

そして安宿媛も愚かではない。

二人とも自分の立場をよく弁えていてのこと、しばらくそのままにさせてやれ」

 

 もうこれが最後になるだろうからと、房前の瞳には憐憫の光が優しくたゆたっているようだった。

 

「青嵐は義母上が東市からみつけてきた異国人だ。

あの美しい容貌に惹かれぬ女はおらぬだろう」

 

 自分たちにはない神秘的な美しさの青嵐に安宿媛が恋心を抱くのも納得する麻呂だったが、房前の言葉に思わず耳を疑うことになる。

 

「ただ、青嵐は安宿媛の当て馬として連れてこられたにすぎぬ」

 

「当て馬?」

 

「広刀自に対抗できるよう、安宿媛に女としての妖艶さを植え付けるためだ」

 

 麻呂の視線の先には戯れる二頭の馬の姿があった。

 戯れ合うというよりもむしろ、毛艶のない馬が一方的にもう一頭に戯れているように見えた。

 

ーーあの馬はたしか、先ほど石鍬麻呂が言っていた牡馬では……?

 

 その牡馬に戯れつかれていささか迷惑そうにも見える黒影の馬は、間もなく訪れる繁殖期に別の血統の良い馬に合わせるのだと石鍬麻呂が言っていた馬であった。

 

ーーあの馬は気乗りしない牝馬をその気にさせるためにあてがわれているのか……?

 

 麻呂はごくりと唾を飲み込み房前を見た。

 房前は目の前を鼻息荒く駆け抜ける馬たちを瞬きもせずみつめている。

 人は恋をし、愛し愛されることで輝いていく。

 それは秘めた恋、道ならぬ恋であればあるほど艶やかに色づき、そんな想いの果てに美しくなる女たちを麻呂は幾度も目にしてきた。

 安宿媛はたしかに美しいが首皇子の寵愛を得るにはあまりにも清らかすぎる。

 安宿媛には男がむしゃぶりつきたくなるような女の艶かしさがないのだ。

 大人しい性格とはいえ首皇子もいっぱしの青年男子であり、広刀自を寵愛していることからも首皇子が女に何を求めているのかがわかるようであった。

 

ーーこのままの安宿媛では広刀自に太刀打ちできぬ。

 

 日一日と間を置かず広刀自のもとを訪れる首皇子を見て、さすがの三千代も焦りを隠せなくなったのだろう。

 それほど寵愛深い広刀自に御子が生まれるのはもはや時間の問題である。

 しかし一番の問題はそこではなく、首皇子安宿媛の間に子ができるのかということだった。

 首皇子安宿媛への愛情は女というよりも姉に近いものがある。

 首皇子安宿媛の入内の意味をしっかり理解しているとはいえ、そこに心身が伴わねば御子の誕生は望めない。

 

「義母上は安宿媛と青嵐がこうなることを見越して、わざと接近させたと仰るのですね。

決して結ばれることのない二人の想いを利用したと……」

 

「恋にやつれた女の美しさ、そなたならわかるはずだ」

 

 房前は抑揚のない口調で言い放ち、抱きしめ合ったまま動かない安宿媛と青嵐をじっとみつめていた。

 じきに安宿媛はあの緑の波から戻ってくるだろう。

 そのときの安宿媛の面差しはもはや以前の屈託のない少女のそれではなく、叶わぬ想いをどうしたらよいかと持て余す恋する女のものになっているだろう。

 元が美貌の安宿媛が恋に憂う女に変わり目の前に現れたなら、首皇子はどのように迎え入れるのだろうかと麻呂は思った。

 おそらく広刀自など到底及ばないほどの艶かしさを前に、首皇子が瞬き一つせず固唾を飲む姿が思い浮かぶ。

 

「だとすればあまりにも酷いことではありませんか?

安宿媛にとって青嵐は初恋だ。

おそらく青嵐にしても戯れの恋ではありますまい。

たとえ結ばれない二人であっても、皇太子の寵愛を受けるためにその想いを利用するなどと、あまりに無慈悲だ……!」

 

 仮にも安宿媛の実母ではないかと麻呂は吐き捨てるように言った。

 唇を噛みしめながらグッと拳を握りしめている麻呂は本気で怒っているのだと房前は思った。

 恋の手練れとして数々の浮名を流す麻呂であったが、その時々の想いは決して戯れでなく、真剣そのものなのだといつか真顔で話したことがある。

 湧き上がる想いを大切にし全身全霊で人を愛する麻呂にとって、安宿媛と青嵐の純心な愛情が権力への野望のために汚されたようで、それは到底許されるものではなかった。

 

「忘れたか、麻呂」

 

 房前はまっすぐに麻呂をみつめた。

 

安宿媛の母は県犬養橘三千代だぞ。

女帝たちと渡り合ってきた女傑、父上が念願叶ってようやく手に入れた同志なのだ」

 

 房前の言葉に麻呂はハッと顔を強張らせた。

 

ーーそうだった、義母上は……。

 

 奥歯を噛みしめながら額には薄っすらと汗が滲む。

 文武帝の乳母だった三千代をようやく手に入れたときの不比等の喜びは尋常ではなかった。

 普段滅多に感情を表さない不比等があれほど喜びを露わにしたのは、おそらくこのときが初めてではなかったか。

 不比等を有能な臣下として頼りにしていたものの、三千代を妻とした不比等から微かな野望の臭いを嗅ぎつけた女帝たちは、その後さりげなく距離を取り始めた。

 持統女帝亡きあと歳若くして夭折した我が子文武帝を見送り、自ら女帝として即位した元明女帝は、そのやわらかな笑顔の下にしなやかな強かさを持ち、不比等たち藤原一族と渡り合っている。

 あれほど信頼していた三千代でさえ不比等の妻となったことで距離を置かれ、女帝たちのよそよそしい態度に悲しみの涙を流す義母の姿を麻呂は思い出した。

 

ーーあの殊勝な涙にも裏がありそうな……。

 

 女傑と呼ばれるにふさわしい強かさは普段その柔和な笑顔に隠されているものの、絶妙な度合いでその威力が発揮されるのを不比等元明女帝も嗅ぎ取っていたのだろう。

 

「父上の宿願でもある皇室に藤原の血を繋いでいくという使命を果たすためにも、安宿媛には宮子のように何がなんでも皇子を産んでもらわねばならぬ。

首皇子安宿媛を女として意識するために、まずは安宿媛から幼さを消してしまおうという義母上らしい作戦ということだ」

 

「よしんば皇子を産んだとしても、宮子のように精神に異常をきたし一度も我が子に会えぬことになっては、安宿媛にも生まれた御子にとっても不幸の何ものでもありませんがね。

父上も義母上も安宿媛が宮子の苦しみを味わうことになるかもしれぬと、心に留め置かれているのか……」

 

 世継ぎの皇子を産め!

 

 何としても男御子を!

 

 男子誕生のプレッシャーを受け続け、その望みが叶い赤子の産声を耳にした瞬間、それまで耐えに耐えていた宮子の張り詰めた心の糸がブツッと切れてしまった。

 それから日常生活もままならなくなった宮子は病の床に臥し、以来十六年、未だに首皇子は一度も母に会うことができないでいる。

 三千代をはじめ愛情をかけ大切にしてくれる存在はあっても、母のぬくもりを心身に感じることのできない首皇子の虚しさと悲しみは計り知れないと麻呂は思う。

 

「しかしこれでは安宿媛があまりにもかわいそうだ……!

青嵐とて義母上にその想いを利用されたのちは、その身に危険が及ぶかもしれませんよ?」

 

「義母上が何のために見目良い、しかも異国人をみつけてきたのだと思う?

後腐れなく事をすますために青嵐ほどうってつけの者はおらぬと、ほくそ笑んでおられる義母上の姿が目に浮かぶわ」

 

 房前は嘲るように笑い、

 

「心は弄ぶものではないのだ。

ーー人を想う心は弄んではならぬもの……」

 

 一瞬遠い目をした房前を見て、もしかしたら兄上には強く想う女人がいるのではと麻呂は思った。

 房前ほどの男でも上手くいかない恋があるのかとも思ったが、それもまた恋である。

 だからこそ三千代のあまりといえばあまりの思惑に、房前が静かな怒りを向けているのを感じ取った麻呂であった。

 

「行くぞ」

 

「えっ?どちらへ?」

 

「恋の手練れにしては無粋なことだな」

 

 房前はニヤリと笑いながら踵を返し、元来た道を戻り始めた。

 

「最後の逢瀬だ、恋人たちのためにしばし時間を割いてもよかろう」

 

「戻りが遅いと義母上からお叱りがあるやもしれませんよ」

 

「そのときは麻呂が女を口説いていたからとでも言えば、義母上も納得されるだろうよ」

 

「兄上、それはあんまりだ!

また私だけが悪者になって義母上からお叱言をもらうはめになるんですからね!」

 

 寄り添い合う恋人たちをそっと横目に見て二人は密やかに笑い合った。

 

 

 

    雨は上がったようだ。

 三千代は侍女に運ばせた薬酒を飲み干して息をついた。

 このところ動悸が弾むことが増え、医師に命じて作らせた薬酒をこうして日に三度飲んでいる。

 安宿媛の入内の準備に追われて疲れが溜まっていたのだろう。

 三千代の髪を撫でながらゆっくり休めと言った不比等は、まだ準備に余念がないのか先ほどせかせかと出て行った。

 安宿媛の入内が間近に迫り、藤原家はもちろんのこと、迎える皇族たちも何やら慌ただしい雰囲気であった。

 安宿媛をにこやかに迎え入れる姿勢を見せながら、女帝たちが内心苦々しい思いでいることを三千代は重々承知している。

 宮子娘を文武帝の傍へ送り皇子が生まれたことで一気に流れが藤原一族へ向かってきた。

 

ーー宮子の、即ち藤原一族の血を引く皇子を帝位に就け、その傍に再び藤原一族の血を引く娘を送り皇子を産ませる。

 

 藤原一族がかつての蘇我氏に取って代わるような、権力の移ろいが静かに強制的に起ころうとしている。

 持統女帝も元明女帝も生母はともに蘇我氏の出であり、皇后、帝も蘇我氏の血を引くことが暗黙の了解になっていた。

 そこに割ってきた藤原一族に女帝たちが警戒心を露わにしたのは当然のことで、不比等も三千代も別段驚き恐れることでもなかった。

 首皇子安宿媛

 藤原一族の希望の星は我々の手の中にある。

 三千代はフッと笑みを零した。

 安宿媛の美貌は日に日に輝きを増し、同性から見ても見惚れてしまうほど美しくなった。

 少し前なら感じられなかった憂いが加わり、人知れず艶いたため息を洩らす安宿媛の姿を見たら、首皇子の心は必ず昂りを感じるだろうと三千代は確信している。

 安宿媛に先立ち首皇子の傍に上がった県犬養広刀自の入内は、女帝たちの願いでもあった。

 

「皇太子の周りを華やかにするためにも、もう一人くらい入内させては?

皇太子の心の支えになる者は多いに越したことはありませんからね」

 

 孫を想う祖母の気持ちを全面に出されては、元明女帝の笑みの裏にある思惑に気がつかぬふりで不比等は首を縦に振るしかない。

 せめてもの対抗として選んだのが三千代の同族の県犬養広刀自であった。

 同じ一族であれば万が一安宿媛よりも早く皇子が生まれても、押し退けて安宿媛所生の皇子を帝位に就けることができるとふんだのだ。

 ただ不比等や三千代の誤算は首皇子が思いのほか広刀自にのめり込んでいること、そして女帝たちが広刀自を手厚く取り込んでしまったことであった。

 一日を置かず夜を共に過ごすとなれば、広刀自が身ごもることはもはや時間の問題だ。

 少なからず焦りを覚えた三千代の気がかりは、首皇子が広刀自のように安宿媛を愛するかどうかであった。

 首皇子は幼少から三千代の手許で、安宿媛とはまるで姉弟ように成長してきた。

 愛情はあっても首皇子安宿媛と広刀自に抱くそれは全くの別物であり、不比等と三千代が何よりも気を揉むことであった。

 

ーーそれも杞憂に終わる……。

 

 安宿媛は恋をし愛することを知って女の艶かしさを纏うようになった。

 それまで恋や愛の何たるかを知らず、清らかで純真な無垢の娘であった安宿媛

 そう育ててきたのは母である自分であり、その清らかで美しい皮を無理やり脱皮させたのもまた母なのである。

 

ーー安宿媛……。

 

 日がな一日部屋に籠り食事にもほとんど手をつけないでいる安宿媛の、恋にやつれた姿を思い三千代は小さくため息をついた。

 嫁ぐことが決まっていながらも安宿媛にとっては初めての恋。

 人を想うことを知り心が熱く燃え上がっているであろうことを思うと、同じ女としていたたまれず申し訳のないことをしたと心が痛む。

 

ーー安宿媛、けれど母はそなたに詫びはせぬ……。

 

 不比等と三千代の娘に生まれてきたことで、安宿媛の運命はすでに決まっているのだ。

 小さな娘の温もりをその腕に抱き不比等と視線を交わした瞬間から、安宿媛首皇子とともに生きる道ができあがって今に至る。

 

ーー安宿媛、そなたには必ずや皇子を、藤原不比等の血を引く皇子を、必ずや産みまいらせねばなりませぬ。

お父様の、そしてお祖父様の血を皇室に蘇らせねばならないのですから……。

 

 三千代は不比等に初めて会ったときその顔が持統女帝にあまりにも似ていることに驚き、そして不比等の生母が藤原鎌足が賜った天智帝の側室だと知った。

 不比等が天智帝のご落胤であるとの噂は不比等の成長とともに囁かれ続け、持統女帝とよく似ている容貌から口には出さないが、それは人々の心の内で次第に確信に変わっていった。

 皇太弟大海人皇子が天武帝として即位してから続く天武系の血を、何としても天智系に返さねば泉下の天智帝も鎌足も安らかになど眠れはすまい。

 不比等が自分に執着したのもその野望を達成するためであり、そこに愛などないことを三千代は最初から知っている。

 不比等が欲しいのは文武帝の乳母であるという自分の地位だけだ。

 不比等の心にはただ一人想う女がいる。

 肌を合わせるたびに不比等の心を捉えて離さない女の存在が三千代を苦しめてきたが、今となってはその存在すら気にもならない。

 

ーー藤原一族の血だけではない、同じように私の血も脈々と繋がっていくのです……。

 

 三千代が誰よりも愛しんだのは我が子よりも乳母として仕えた軽皇子、のちの文武帝であった。

 三千代の人生は軽皇子に捧げたものと言ってもいい。

 首皇子安宿媛が結ばれたあかつきには、大切に大切に育て奉った軽皇子と自分も一つになれるような気がした。

 様々な思惑は初めての恋に悶えるような、ほんの幼い少女には重すぎる運命かもしれない。

 しかしもう運命の輪はすでに廻り始め、後戻りはできないのだ。

 

ーー安宿媛、これからそなたに向けられるすべての怨嗟の念は母が受け止めよう。

何があっても、そなたは私が守り抜いてみせる。

 

 三千代が手を叩くと足音もなく侍女がにじり寄った。

 

安宿媛の様子は?」

 

「お食事も召し上がられませず、侍女も中に入れず奥にお籠りでいらっしゃいます。

このままではお身体が案じられてなりませぬ」

 

 三千代は侍女の耳に何やら小声で囁くと、侍女は驚いたように、

 

「よろしいのでございますか?

万が一……」

 

 侍女はしかし三千代の微笑みにぶつかり、慌てて頭を垂れて部屋を出て行った。

 

「最後にあの男へも礼を伝えねばな……」

 

 三千代は呟き、再び椅子に埋もれて目を閉じた。

 

 

 

 緑の草が風で吹かれ揺れるたびに雨露が煌めいて飛び散るのを、青嵐は傍らの石に腰を下ろしたまま身じろぎ一つせずじっとみつめていた。

 目の前には薄く朝靄がけぶる。

 安宿媛が来るまでにはまだずいぶんと間があるというのに、居ても立っても居られずに家を飛び出てきた青嵐であった。

 安宿媛をこの腕に抱きしめたあの日。

 華奢でか細い安宿媛の身体は小さく震えていたが、交わす瞳の中にはお互いへの揺るぎない想いがたゆたっていたことを思い出す。

 ほんの数えるほどしか逢えずとも、人は心から愛する人と深いところで繋がれるのだと、青嵐は安宿媛との出会いで知ることができた。

 安宿媛が嫁いでしまえばおそらくもう再び会うことはできないだろう。

 青嵐は国へ帰ろうと思った。

 この国に来たのは何か志があったわけではない。

 ただ単純に異国への憧れもあったが、国にいても未来を見出せず、瞳の色へ向けられる人々の遠慮のない視線から逃げ出し、ここから出れば何かが見つかるかもしれないと思ったからだ。

 青嵐がその何も見出せなかった故郷へ帰ろうと思ったのは他ならぬ安宿媛と過ごした日々であり、共に行ってみたいと言ってくれた故郷の草原で、安宿媛との想い出を胸にこの先の人生を歩もうと決めたからであった。

 決して結ばれることのない安宿媛との未来。

 しかし心はいつだって自由に愛することができる。

 たとえどんなに離れていようと心が通い合ったあの日の想い出さえあれば、青嵐は安宿媛への想いに心を満たされながら生きていくことができる。

 青嵐は懐からいくつもの糸が織り重ねられた鮮やかな朱色の小袋を取り出した。

 青嵐のような身分の者がおおよそ持つことのできないその豪奢な造りの袋は、あの日安宿媛がそっと手渡してくれたものであった。

 

「これは私が幼い頃より肌身離さず身につけている御守りです」

 

 袋の中には小さな緑玉があり、丸く艶やかなそれは不思議なほど煌めいて見えた。

 

「まるでそなたの瞳の色のよう……。

これを見るたびになぜかそなたのことを思い出すようになっていました」

 

 安宿媛のどこか切羽詰まったような口調には、おそらく今まで感じたことのない感情への戸惑いが見え隠れし、それが青嵐の心をさらに燃え上がらせた。

 

「これを、そなたに」

 

 安宿媛はまっすぐな瞳を向け、小袋をそっと青嵐の手に握らせた。

 

ーーこれは私。私の心はいつもそなたとともに。

たとえ離れていても、ずっと……

 

 ただまっすぐにみつめる安宿媛の瞳は間違いなくそう物語っているのだと確信した青嵐は、再び安宿媛を強く腕に抱きしめたのだった。

 小袋に頬を寄せると安宿媛の甘やかな匂いが鼻先をくすぐり、青嵐はギュッと目を閉じた。

 安宿媛への想いを抱いたままこの国にいるのは辛すぎる。

 この先他の女を愛する自分を想像することもできず、それならば安宿媛が行ってみたいと言った母国に戻り、安宿媛を想いながら緑なす草原に骨を埋めようと思う青嵐であった。

 気がつけば朝靄は晴れ、辺りは明るくなり始めている。

 安宿媛と会うことは今日で最後になるだろう。

 一秒でも早く安宿媛に会いたいと思う一方で、一秒でも早く安宿媛のいない世界に行きたかった。

 安宿媛がいない世界にすぐにでも飛び込み、一日も早くその暮らしに馴染みたかった。

 馬たちの嗎が聞こえ青嵐は振り返った。

 馬房の陰に何かが光りそれは一直線に青嵐めがけて向かってきた。

 その瞬間、まるで青嵐が行こうとしている世界への導きであるかのように、緑に光る雨露が一面に散らばっていった。

 

 

 緑の波を安宿媛は静かに歩いていた。

 青嵐と抱きしめ合った草原にはあのときと同じ優しい風が吹いている。

 行く先に見える馬場では馬たちの嗎とともにカッカッという蹄の音が聞こえてきて、安宿媛は走り出したい衝動に駆られた。

 走り出した自分を力強く馬の背に乗せた青嵐とともに、追手を振り切り駆けてゆく。

 陽が昇る東へ向かおうか、それとも青嵐の故郷へ行きささやかながら二人で馬とともに暮らしていこうか。

 二人の行く手を咎める者は誰一人としていない、自由な世界。

 安宿媛はつと歩みを止め、フッと笑みを零した。

 風がやわらかに吹き、足元に土埃が舞う。

 

安宿媛様、どうあそばされました?」

 

 後ろからついて歩く細面の侍女が怪訝そうに安宿媛の顔を除き込んだ。

 幾人もの侍女や警護の者たちが安宿媛を囲むようにして足を止めている。

 

安宿媛

 

 背後から麻呂が馬を駆らせてやってくると、周りの者たちは慌てて離れた。

 

「お兄様」

 

 どこかホッとしたように安宿媛が微笑むと細面の侍女は恭しく頭を垂れながら、

 

「これは麻呂様。

このところ御気分が優れぬ安宿媛様を案じられました御母君様が少し気晴らしにでもと仰せになられまして、本日こちらへ参った次第にございます」

 

「……そうか」

 

 麻呂は三千代腹心の侍女というこのしたり顔の女が好きではない。

 少しでも三千代の意に反することがないか隅々まで視線を巡らせて、それは不比等の息子である麻呂たちはもちろんのこと、三千代の娘である安宿媛にさえ監視のような視線を平然と向けてくる。

 安宿媛気鬱の原因などわかりきっているだろうにと、麻呂は苦々しい思いで馬上から安宿媛を取り巻く隊列を見下ろしていた。

 

「それでこれから馬にでも乗るのか?

入内すればおいそれとここを訪れることもままならぬし、今日は存分に駆けてゆけばよかろう。

青嵐に申して準備をさせよう」

 

「お待ちくださりませ、それはなりませぬ」

 

 細面の侍女が頭を垂れたままピシリと言った。

 

安宿媛様は入内を数日後に控えておられる大切な御身。

馬などお乗りあそばされてお怪我でもなされたら一大事でございます。

御母君は最後に馬をゆっくりとご覧になり、心を落ち着かせるようにと仰せにございましたゆえ…」

 

 侍女が最後まで言い終わらぬうちに麻呂は安宿媛の手首を掴み、グイッと引き寄せて共に馬上の人となった。

 

「まあっ!麻呂様、何ということを!

御母君のお言付けなのでございますよ!

それをまあ、このような無礼を……!」

 

 侍女の金切り声が響き、警護の兵士たちも事の成り行きに慌てふためいて右往左往し始めた。

 

「うるさいわ、女」

 

 馬上の上から見下ろす麻呂の視線には、いつもの愛嬌溢れる人懐っこさは微塵も見当たらない。

 それどころか滅多に見ることのない怒りを湛えた麻呂の眼光の鋭さに、周りに控えている者たちは一瞬にして怯んだ。

 

「せっかく馬場へ来て馬にも乗らず帰るとは、何ともつまらぬことだ。

義母上には麻呂があとでお詫びに伺うと申し上げよ」

 

 はあッ!と麻呂が声を上げると黒影は待っていたかのように疾風のごとく駆け出した。

 侍女たちの叫び声を背中に受けながら安宿媛は麻呂の腕の中で堪えきれず笑い出していた。

 

ーー私の考えていることをお見通しなのかしら。

 

 つい先ほどまで安宿媛が思い浮かべていた光景そのものであることが可笑しかったが、ひどく悲しくもあった。

 黒影から降り立った安宿媛は辺りを見回し、そこに人影のないことを訝しく思った。

 ここは離れているとはいえちょうど馬房の裏手にあたる場所なのだから、厩舎の者の姿が遠くに見えてもおかしくはない。

 以前来たときもちらほらとその姿を見たことがある安宿媛であった。

 

「お兄様?」

 

 そのとき共に降り立った麻呂の顔色がひどく悪いことに気がついた安宿媛は驚いて、

 

「どうなされたのですか?

どこかお身体の具合でもお悪いのではありませんか?」

 

安宿媛、こちらに」

 

 いつになく厳しい表情に安宿媛の胸を一瞬何か嫌な予感がよぎり、辿々しい足取りで麻呂の後に続いた。

 着いた先は厩舎で使用する道具などが置かれてある小さな小屋で、そこからは青嵐との想い出の草原を見渡すことができる。

 小屋の近くまで来た安宿媛は息を飲み、思わずその場に立ち尽くした。

 目の前にある人一人座れそうな石の周りに夥しい血の跡があり、そのすぐ傍に見覚えのある小さな袋が落ちてあった。

 安宿媛は無言で近づき、震える指でその小袋をそっと手に取った。

 鮮やかな朱の袋は血が染み込んだのか、所々朱が異様な赤に染まっていた。

 袋を胸に当てたまま微動だにしない安宿媛を、麻呂は心配そうにただみつめている。

 幼い頃から聡明な姫と誉れ高い安宿媛のこと、この惨状から誰の身に何が起こったのかすでに察しているだろうと麻呂は思い、グッと拳を強く握りしめた。

 安宿媛の到着を前に麻呂が厩舎を訪れると石鍬麻呂が顔面蒼白で、裏手にある小屋の前が血だらけになっているとしどろもどろに言ってきた。

 駆けつけた先は石鍬麻呂が言う通り夥しい血の跡があり、おそらく誰かが襲われたのだろうと麻呂は思った。

 しかし血の跡があっても肝心の遺体がない。

 辺りを探しても見当たらず、ただ血痕が馬場の外へ続く裏門の外へと続いているのを見ると襲われた者が自力で逃げたか、あるいは誰かが遺体を抱えて出たかということになる。

 そして石鍬麻呂から青嵐の姿が家にもどこにも見当たらないと聞いた麻呂は、そのとき安宿媛の顔が浮かんできて背筋が氷のように冷たくなった。

 

ーーまさか……。

 

 麻呂はとりあえず厩舎の者たちに口止めし、すぐに来てもらうよう房前の屋敷に使いを出した。

 

安宿媛、それはたしか……」

 

 安宿媛が胸の前で握りしめている小袋の生地に麻呂は見覚えがあった。

 たしか安宿媛お気に入りの衣装を作らせたときに、余った布で自分が縫ったのだと安宿媛が嬉しそうに教えてくれたものだ。

 この袋に大切な宝物をしまうのだと。

 その袋は今や血に染まり安宿媛の手の中に戻ってきた。

 

「お兄様」

 

 振り向いた安宿媛は青白く顔色を失い今にも倒れそうに見えたが、不思議なほど落ち着いた声で、

 

「この袋、中には何も入っておりませんわ」

 

 麻呂は小袋を受け取りながら、おそらくこの中に安宿媛の宝物が入っていたのだと思った。

 

「見つけたときには何も入っていなかったぞ。

これを見つけたのは私だから間違いはない」

 

 念のため麻呂は厩舎の者に言いつけて辺りを隈なく探したが、袋の中に入っているような物は何一つ出てはこなかった。

 袋にしまわれていた宝が何なのか。

 おそらくそれはすでにここではないどこかに行ってしまったのだろう。

 安宿媛はそれ以上宝の行方について何も言うことはなかったが、麻呂も安宿媛の心情を慮ってそれ以上何も聞きはしなかった。

 

「そうですか……」

 

 安宿媛は小袋を受け取ると、それを静かに懐にしまった。

 

安宿媛、それをどうするつもりだ。

そのような不浄なもの、身につけていてはならぬ!」

 

 入内を間近に控えているのにもかかわらずそんな不浄な物を身につけていてはと、さすがの麻呂も慌てて袋を捨てるように言った。

 安宿媛は嫋やかな笑みを浮かべてゆっくりと首を振った。

 それは悲しみの中にありながら、どこかホッとしたような安堵の笑みに見えた。

 

「私の宝がここにない。

それだけでもういいのです。

私の心が自由に旅立ったということなのですから」

 

 安宿媛は一度草原を振り返り何事かを呟いたあと、元来た道をゆっくりと戻っていった。

 房前が馬場へ到着したのは安宿媛が帰邸したあとであった。

 小屋の周りは片付けられ、辺りはすっかり元通りになっている。

 

「すまないな、手間取ることがあったもので」

 

「女のところでも行っておられたのですか?」

 

 いつもなら使いを出すとすぐに返事をくれるかその場所を訪れる房前が、今日に限って遅いことに麻呂は苛立ちを隠せなかった。

 

「大変なことが起こったのですよ。

こんなときに限って兄上ときたら……」

 

 ぶつぶつこぼす麻呂を尻目に房前は小屋近くの石に腰を降ろした。

 

「あ、兄上、そこは……!」

 

 こびりついた血は拭かせても容易に落とせず、今もまだほんのりと赤く染まったままなのに、麻呂は慌てて房前を起こそうとした。

 

安宿媛はどんな様子であった?」

 

 ここで何があったのかすでに全部知っている口ぶりの房前に、麻呂は深く息をつきながら先ほどの安宿媛の様子を伝えた。

 

「さすがは藤原不比等県犬養橘三千代の娘だけあって大したものだな。

あのようなことがあったというのに、自分の立場をよく理解している」

 

 房前は愉快そうに笑って麻呂を見上げた。

 だがその瞳にはひどく切ない光が揺れており、そこに房前らしからぬ気弱さを感じて麻呂は動揺した。

 

「麻呂。青嵐という舎人童は夢のような存在だったのだ。

安宿媛は短くてもその夢を見ることができたのだから、それだけでも幸せなことだ。

夢はいつかは醒めるもの、しかしいつまでも心の奥に残るものだ。

安宿媛はその夢を思い出すだけで、この先どんなことがあろうと生きていける強さを手に入れたのだから」

 

 私もそんな強さを持ちたいものだと呟いた房前は、今にも泣き出しそうなくらい寂し気な表情をしていた。

 

『シャハーブ、そなたと、夜空で』

 

 安宿媛の呟きが麻呂の脳裏に蘇り、目の前の房前と重なった。

 

ーーやはり兄上は誰か心に想う方がおられるのか……。

それは、もしや……?

 

 房前はおそらく死ぬばかり誰かを想っている。

 青嵐が安宿媛を想うのと同じ、決して結ばれることのない存在に恋焦がれている。

 確信めいたものが麻呂の中に生まれると、安宿媛と青嵐の恋をみつめる房前の視線がやけにあたたかく優しかったのも、その中に時折り嫉妬めいた光が見え隠れしていたのにも麻呂は頷けるようであった。

 

「さて、こんなところでゆっくりしている暇はない。

おまえも早く支度をして父上の屋敷へ伺わなくてよいのか?」

 

「え?」

 

 きょとんとする麻呂に房前は小さくため息を漏らしながら軽く頭を小突いた。

 

「今宵は一族が集い安宿媛入内を祝う宴ではなかったか?」

 

 今日のことですっかり頭から抜け落ちていたとみえる麻呂は、顔をしかめながらああッと声を上げた。

 

「嫌だなあ、すっかり忘れていましたよ。

兄上に言われなければ今宵は女のところでした」

 

 女への言い訳をあれこれ思案中の麻呂にやれやれと言うように、

 

「武智麻呂兄上にお説教をいただくところだったな。

加えて宇合から殴られていたかもしれぬが」

 

「どちらもごめん被ります!

いったん帰宅して身を整えて急いでまいりますゆえ」

 

 兄上たちには内緒にしておいてくださいよと念を押して、麻呂は慌ただしく黒影を駆けさせて行った。

 振り返り風に波打つ草原をみつめる房前の目に、お互いの想いを確かめるように、しっかりと抱きしめ合う青嵐と安宿媛の姿が鮮やかに浮かんできた。

 

ーー義母上はまこと、食えぬお方よ……。

 

 嫋やかな笑顔の下に恐ろしく非情な一面が隠されていることに気がついているのは、果たしてどれほどいるのだろう。

 誰も彼もあの柔和な下がり眉の笑顔に騙されて心許してしまうのだ。

 今回のことで安宿媛は母の本当の姿に気がついたかもしれない。

 しかし安宿媛はおそらく素知らぬふりで入内の日を迎え、変わらぬ天真爛漫さで人々を魅了していくのだろう。

 三千代と同じようにその屈託のない笑顔の下に、しなやかな強かさを隠しながら。

 

ーーすべてを闇の中に葬ったと今頃安堵されているのであれば、それはどうでしょうな、義母上。

 

 房前はニヤリと口の端を持ち上げて笑う。

 

ーー私は人の恋路を弄ぶことを、決して許してはおけぬたちなのですよ……。

 

 遺体なき血だまり、そして袋に大切にしまってあったはずの緑玉が行方知れずであることが、安宿媛の心を軽くしていることは間違いない。

 

ーー青嵐は生きている。

 

『幼にして聡明』と呼ばれた安宿媛だから、もしかしたら房前の思惑に気がついているかもしれない。

 入内を控えている安宿媛が馬場を訪れると聞いたとき、なぜかしっくりこなかった房前は眠れぬ夜を過ごしたまま、まだ明けきらぬ馬場を密かに訪れていた。

 そこへ息を切らせながらやってきた青嵐がしばらくの間草原を見やりながら、物想いに耽ってその想いを断ち切るように立ち上がったときそれは起こったのだった。

 小屋の陰から躍り出た男は鋭い刀で青嵐を切り裂いたかと思うと、すぐさまそこから走り去って行った。

 傷は深かったが致命傷でなかったことが幸いにまだ息があった。

 房前はすぐに止血を施し馬の背に青嵐を乗せ黒影を駆け、外京東五坊大路の端にあるこじんまりとした家の戸を叩いた。

 

「なんだなんだ、こんな朝早くに誰だ!」

 

 中から無精髭をさすりながら年配の男が顔を出すと、房前は無言で青嵐を運び入れた。

 

「また厄介者ですかい?」

 

 男は相手が房前だとわかると少しだけ口調がやわらかになり、一瞬おや?という顔つきになったが慣れた手つきで服を脱がせ青嵐の傷を確かめ始めた。

 

「どうだ、斎医師」

 

「ふん、この手負いでよくもまあ息があることだ。

さぁさ、早くそこをどいてくださいよ!

この男を助けたければね」

 

 一刻ののち隣室から出てきた斎医師の額には汗が玉のように噴き出して、のどが渇いたのか水瓶の水を器にザブリと入れると酒をあおるように飲み干した。

 

「なんとか命は繋ぎ止めましたがね」

 

「大丈夫か?」

 

「あとはあの男の生命力に賭けるしかありませんね。

生きたいという執念でもあれば目覚めるでしょうが」

 

 斎医師はフウッと息をつき房前の目の前にどっかと腰を下ろして、

 

「つい先日、東市にある小間物売りの男がこの辺りに来て言っていたんですがね。

異国から来た緑色の瞳の男を見かけなかったかと」

 

 房前は眉一つ動かず斎医師をみつめている。

 

「どうも藤原不比等卿のお屋敷で何かやらかして行方をくらましているとか。

見つけ出したらたんまり礼をもらえると、血眼になってそこいら中を探しておりますが、旦那」

 

 斎医師は奥の部屋にチラリと視線を投げた。

 

「あの男、もしやそのお尋ねも……」

 

「斎医師、このことは他言無用だ」

 

 房前の鋭い視線を前に斎医師は息を飲み、そして肩をすくめた。

 

「わかってますよ、旦那。

これまでもあんたの言うことは何だって聞いてきたじゃありませんか。

私だって命は惜しいですからね、あんたに逆らったときは私の最期になることなんざわかりきってるんだ」

 

 ぶつぶつこぼしながらも、弾んでくださいよ!とちゃっかり言うことは忘れていない。

 

「しばらくこの男、ここで預かってもらいたい。

訳あって身は明かせぬが、決して誰の目にも触れないように療養させてもらいたい。

入り用なものがあれば密やかに我が屋敷へ参るがよい」

 

「綺麗な顔をしてますな。

こいつは波澌人ですかい?」

 

 言ってから房前の射抜くように鋭い視線が自分に注がれているのを痛いほど感じ、斎医師は再び肩をすくめた。

 

「わかりましたよ、たしかにお預かりしましょう。

しかし傷が治ったあと、この男をどうなさるおつもりで?」

 

「それもおまえの力が必要になる」

 

 房前はニヤリと笑った。

 

 やっぱりというように斎医師は天を仰ぎ、

 

「でしょうな!さらに弾んでもらいますからね!旦那!」

 

 としっかり言うことは忘れなかった。

 

 再び馬上の人となり自邸に戻りながら、今宵着飾って一族の前に現れる安宿媛がもう以前の安宿媛でないことを知るのは、おそらく自分だけだろうと房前は思った。

 叶うことのない恋を貫く辛さを安宿媛と共有できるのは、おそらく自分しかいない。

 この先に安宿媛を待つ運命は決して穏やかなものではない。

 寧ろ毒々しい血の色に染まる道を一人歩く、か細い安宿媛の姿が房前の脳裏に浮かんでくる。

 あの舎人童の恋はそんな安宿媛へ捧げる、まさに夢物語であった。

 修羅の道へ踏み出す前に、ほんのひと時見た恋の夢ーー。

 房前は閉じていた目を静かに開くと、何かを決心したかのように勢いよく黒影を走らせた。

 安宿媛首皇子のもとへ嫁いだのは716年(霊亀2年のこと。

 藤原一族の期待を一身に背負った安宿媛は、房前の予想通り血に塗れた道を歩くことになる。

 しかしどんなときも笑みを絶やさず首皇子を支え続け、藤原一族の希望の星として生きた安宿媛の心の奥底に、儚くも強い若き日の熱い想いが密やかに息づいていることを知る者はほとんどいなかった。

 そして安宿媛が入内して間もなく港から波澌(ペルシア)へ向けて出航する船の中に、お尋ね者の美しい緑色の瞳をした異国人が密やかに乗り込んだらしいという噂も、長い長い歴史の波に飲み込まれて泡沫のように消えていったのだった。

 

 

                   完

 

 

 

 

大好きな光明皇后の若き日の物語を書いてみました。

もしかしたらこんな恋をしていたかもしれない。

歴史の『かもしれない』を想像するのがたまらなく好きなまーたるです(●´ω`●)✨💕

光明皇后の物語は本編でもっとガッツリ書こうと構想中です(*´∀`*)❤️

 

最後まで読んでくださりありがとうございます✨💕

またご覧になっていただけると嬉しいです(о´∀`о)