まーたる文庫。

まーたるの小説・エッセイブログ🖋✨💕

『Shining Days!』

 ……はぁ、はぁ、はぁッ……!

 胸の鼓動が早鐘を打つように激しくなるのも構わずに、勉は空港行きのバス乗り場へ思い切り駆け出していた。

 成田空港行きのバスの出発まであと5分。

 

ーーこんな大事な日だってのに、なんで目覚まし止まってんだ⁉︎

 

 昨夜勉は緊張のあまりベッドへ入ってもなかなか眠れなかった。

 ハイボールでもグイッと飲めばすぐに眠れるかもしれないと思い、友人が置いていったハイボールの缶を手に取ってみたものの、

 

ーー俺、下戸だったっけ……。

 

 アルコールがてんでダメなのを思い出して、勉は絶望的な思いで缶を放り投げた。

 ここで無理やり飲んだとして逆に眠りが深くなり、朝起きれないなんてそれこそ泣くに泣けない。

 なんとか自力で寝ようとするが時間が経つにつれどんどん神経が研ぎ澄まされていくようで、どうすることもできないままにただ時間だけがゆっくりと過ぎてゆく。

 ようやくうとうとしてハッと目覚めたときには起床予定時刻を大幅にオーバーしていて、飛び起きた勉は準備も慌ただしく家を飛び出したというわけだった。

 まだ夜明け前の駅前は静かだが時折り酔っ払いの機嫌のいい歌声が聞こえてくる中を、勉は後から回顧したときおそらく人生イチとも言っても過言ではない速さで駆け抜けた。

 

「待った!そのバス、待った‼︎」

 

 すんでのところで出発に間に合った勉は息を切らしながらその濃いオレンジ色のバスに乗り込むと、運転手に礼を言いチケットの番号の席に倒れ込むように座った。

 早朝にもかかわらずバスの中にはそれでも数人の乗客がいて、朝食を摂ったりシートを倒して寝ていたり、空港までの各々の時間を過ごしている。

 弾んでいた息が少し落ち着いた勉は薄いジャケットの内ポケットにそっと触れて、そこに封筒が入っていることをたしかめた。

 これがないと始まらない、今回のミッションの最重要アイテムなのだ。

 

ーーあいつ、覚えてるかな……。

 

 少しずつ白み始めた深い藍色の空をみつめながら、心地よいバスの揺れに勉のまぶたはゆっくりと下りていった。

 

 

「ベン!」

 

 叫び声に振り返った勉の顔に飛んできたサッカーボールが勢いよく跳ね上がり、勉は抱えていたプリントの束をぶちまけた。

 

「悪い!大丈夫か?」

 

 数人の男子が慌てて駆け寄ってへたり込んだ勉の腕を取った。

 

「ベン、大丈夫か?」

 

 ひときわ背の大きい男子が顔を覗き込むように言い、散らばったプリントをかき集めて勉に渡した。

 

「大丈夫だよ、シュン」

 

 勉は制服に着いた砂を払いながら言い、いつものようにシュンを軽く睨む。

 

「僕は勉、つとむ!

もういい加減その呼び方やめてくれよ」

 

「なんで?保育園の頃からベンなんだから、今さらつとむとか恥ずかしいだろ?」

 

 なぁ?とシュンが周りの男子を見回すと、皆たしかになと頷き合っているのに勉は小さくため息をついた。

 保育園からの幼なじみばかりの中学校。

 当然勉は『ベン』という昔からの呼び方で呼ばれている。

 そもそも『つとむ』という名前は真面目で固そうなイメージだから本当は好きではない。

 シュンのように『峻輝』とか、リョウの『諒介』みたいな、爽やかで今時のちょっとカッコいい名前が良かったと自分の名前を書くたびに思う。

 そんなことを言えば嬉々として名付け親になってくれた今は亡きじいちゃんが悲しむだろうと口にしたことはないのだが、しかし『ベン』なんて呼ばれ方は恥ずかしくてしょうがない。

 

「あら、いいじゃない。

将来海外にでも行ったら何にもおかしいことないわよ。

逆に馴染んでいいんじゃない?」

 

 なんてことを笑いながら言う幼なじみの舞衣にもまた腹が立つ。

 

「おまえ何やってんの?そんなプリント持って」

 

「生徒会がお役御免になったから、生徒会室に溜まってた昨年度のプリント類を片付けてるとこ」

 

「そっか、生徒会長、お疲れさんッした!」

 

 シュンが背筋を伸ばし敬礼すると他の男子たちも右に習えで敬礼するのに、勉はしょうがないなというように小さく笑った。

 

「あ、そういえばさ」

 

 リョウがサッカーボールを指でくるくる器用に回しながら、

 

「転校生くるらしいけど、ベン何か知らね?」

 

「転校生?この時期に?」

 

 勉はもちろん、男子たちも驚いたように顔を見合わせた。

 もうすぐ5月に入ろうかという、しかも3年生という微妙な受験生の時期に転校生?

 

「昨日職員室に日誌置きに行ったらさ、小賀谷が教頭と話してたの聞こえたんだよな〜」

 

「女子?なぁ、女子?」

 

 シュンがリョウの肩をグイグイ抱き抱えるように言っていると、

 

「何?シュン、女子がどうかした?」

 

 背後から静かな声が聞こえシュンがビクッと肩をすくめて振り返ると、そこには冷ややかやな視線をシュンに注ぐ舞衣が腕を組んで仁王立ちになっていた。

 やべ!とばかり男子たちが散り散りになっていくのへ、

 

「おい!なんだよ、おまえら!おいッ!」

 

「どの女子のこと?シュン、詳しく聞かせてよ」

 

 にっこり微笑む舞衣の瞳はでも笑っておらず、勉も触らぬ舞衣にナントカとばかりソロソロと後退りしていく。

 

「あっ、ベン!おまえまで!

ちょっ、待てよ、ベン!

オレを一人にしないでくれよ!」

 

 最後には泣きが入っているシュンに思わず笑いが込み上げてくる。

 シュンも舞衣も勉の幼なじみで、二人は昨年から付き合い始めたばかりなのだ。

 舞衣を怒らせるとヤバいということは皆が知るところで、やんちゃなシュンも昔から舞衣だけには頭が上がらない。

 シュンの腕を掴んで引っ張りながら、あ、そうだと舞衣が振り返って、

 

「ベン、小賀谷が呼んでたわよ。

職員室に来てくれって。

ホラ、シュン!キリキリ歩きなさいよね!

どこの女子のことかじっくり聞いてあげるわ!」

 

 舞衣に連れて行かれるシュンの姿を見送りながら、この光景もあと一年かという寂しさがふと込み上げてきた。

 4月はあっという間に過ぎてもう5月は目の前だ。

 この夏は受験に向けて塾通いも忙しくなるだろうし、あっという間に秋が来てそれぞれの進路に向かう冬が来る。

 保育園から小・中学校と共に過ごしてきた仲間との別れを、勉は今はっきりと自覚したような気がした。

 間伸びしたチャイムの音に驚いた勉は、舞衣に言われたことを思い出して慌てて職員室へと駆けて行った。

 

 

『秋月璃星』

 黒板に書かれた名前の前でニコリともせず、かといって初対面のクラスメイトにびくつくこともなく、璃星はただ静かに立っていた。

 ショートボブの黒髪が艶やかで、璃星の白い肌がより際立って見えた。

 

「秋月璃星です。よろしく」

 

 澄んだ声だというのに抑揚がなく、そのせいかどこか儚げにも聞こえる。

 

「秋月の席は三上の隣でいいな。

三上、おまえ委員長だからしっかり頼むな」

 

 小賀谷がのんびりした口調で言い、璃星は言われるまま勉の隣の席に座った。

 勉と視線を合わすことなく真っ直ぐに前を向く璃星の横顔は、今まで勉が見たこともないような美しさだった。

 眩いばかりに凛として、でもまるでこの地球上すべての人類を拒絶しているとでもいうような、静かな冷たさが漂ってもいた。

 その時にはもうすでに勉の心は鷲掴みにされていて、その証拠にその日から勉の目はどんなときも璃星を探すようになっていた。

 

 季節はずれの転校生であるからか元々の性格のせいなのか、璃星は女子の輪の中に入ろうとしなかった。

 田舎にある小さな中学校、女子の中ではすでにそれぞれの世界ができあがっているし、そこに途中から入るのは誰でも気が折れるというものだ。

 スクールカーストというものがあるならば、その頂点には舞衣という存在がいる。

 サバサバした性格の舞衣だが何かと璃星にちょっかいを出したがるシュンのことで、璃星を快く思っていない風にも見えた。

 男子とも距離を置き一匹狼という表現がぴったりな璃星は、転校早々にもかかわらず『孤高のクールビューティ』などと陰で噂されるようになった。

 何を言われてもさして堪えてもいないような璃星に、最初は敵対心をメラメラ燃やしていた舞衣もそのうち何も言わなくなった。

 女子はおろか男子にも興味を示さない璃星に、当然シュンを気にする素振りは微塵も見られない。

 シュンを横取りされないとわかった安心感が舞衣の心をのびやかにさせ、寧ろクラスメイトから孤立している璃星のことを気にかける風でもあった。

 お節介なところもあるが元々世話焼きの舞衣なのだ、それ以来少しずつ璃星に話しかける場面が増えている。

 相変わらず誰が話しかけても素っ気ない璃星の態度は変わらないが、ほんの少しやわらかな風がクラスに流れてきたように感じる勉なのだった。

 じめじめとした梅雨が明けるかどうかという頃、勉は思いがけなく璃星と親しくなっていた。

 クラス委員長だから他のみんなより話す機会が多いのもあるが、璃星との距離がグッと近づいたのは間違いなくあの地理の授業であったグループディスカッションだった。

 数人のグループを作り各々が行きたいと思う世界の場所を発表しディスカッションし合うという、旅好きの地理教師が提案した授業。

 みんなイタリアやドイツ、ハワイやフランスとか観光都市のある有名どころを発表する中で璃星の選んだ場所は聞いたこともないような場所だった。

 

「ラス・バルデナス・レアレス」

 

 ニコリともせずに璃星が言ったとき、勉と他の二人は思わず顔を見合わせた。

 

「え、ラ、ラス……?」

 

 困ったような勉に璃星は抑揚のない声でもう一度繰り返す。

 

「バルデナス・レアレス」

 

「初めて聞いたけど、それどこの国?」

 

「スペイン」

 

 どんなところか聞こうとしたときチャイムが鳴り、教室は訪れた昼休みに嬉々とするクラスメイトたちの賑やかな声で騒がしくなった。

 ラス・バルデナス・レアレス。

 勉は昼休みに図書室で『世界の旅人』という本を開いて、その秘境のような場所に目が釘付けになった。

 スペイン北部にある砂漠地帯。

 太古の昔は海の底だったという一帯はまるでよその惑星かと思うほど荒々しく、それでいて神秘的な美しさが広がっている。

 見はるかす岩山は太陽の光を浴びて輝いているが、大地に舞う砂埃が荒涼感を増しているように見えた。

 

ーーこれがあいつが行きたい場所……。

 

 ページをめくる手を止めて勉は無表情の璃星を思い浮かべた。

 クラスメイトの誰とも交わろうとせず、決して心を許そうとしない璃星。

 季節外れの転校生、何かしらの事情でもあるのだろうか。

 

ーーなんでこんなところに行きたいんだろう。

 

 璃星の心にはあの荒涼とした砂漠が広がっているのだろうかと想いを馳せながら、勉は秘密の場所へ向かった。

 勉だけしか知らないその秘密の場所の扉をそっと開けて、勉は思わず息を飲んだ。

 

「璃星⁉︎」

 

 行くことを禁止されている屋上の一角。

 扉の鍵が壊れているのを知ってからというもの、考え事をしたり一人になりたいとき、そっとここを訪れては寝転んで空を見上げていた勉だけの秘密の場所だった。

 

「なんでおまえがいるんだよ」

 

「ここはあんただけの場所じゃないでしょ?」

 

 しれっと言ってのける璃星は相変わらずぶっきらぼうだが、どこか面白そうに見えた。

 

「それはそうだけど……。

ここは立ち入り禁止なんだぞ。

なんで来るんだよ」

 

「鍵、壊れてるのみんな知らないのね。

いい場所みつけたわ」

 

 ムスッとしている勉の顔が面白かったのか、璃星にしては珍しく声を上げて笑った。

 

「なんだよ」

 

「そんなにむくれなくてもいいじゃない。

これが先生にばれたらあんたも同罪よ。

受験生なんだし、余計な問題おこしちゃまずいでしょ?

クラス委員長さん」

 

 璃星のからかうような言葉に勉は一瞬詰まったが、

 

「ここに何しに来たんだよ」

 

「……息をしに」

 

「息?」

 

「初めて息ができるみたい。

すごく気持ちがいい」

 

 さあっと吹いて来た風がレモンのような爽やかな匂いを運んできて、それは璃星の身体から放たれるコロンの香りだろうか。

 勉はそのレモンの匂いをすうっと吸い込んだ。

 

「……何?」

 

 自分に注がれる視線に振り返った璃星の表情は今まで見たこともないくらいやわらかだった。

 勉の鼓動は一瞬ドクン!と脈打って、サッと紅潮した頬を悟られないようにゴロッと仰向けになり空を見上げた。

 青空にぽん、ぽんと浮かぶ雲がゆっくりと流れていく。

 

「ラス・バルデナス・レアレス」

 

「……え?」

 

 不意に勉の口から出た言葉に璃星は驚いたように小さく目を見開いた。

 

「なんであんなとこに行きたいの?

観光地でもないしあんな自然剥き出しみたいな場所にさ」

 

 勉の眼裏にさっき見た荒涼とした砂漠地帯の写真が再び浮かび上がる。

 

「私にぴったりだと思ったから。

風に土埃が舞う何もない場所が、今の私にぴったりだと思ったからよ」

 

真っ直ぐに前を向いて呟く璃星の表情は穏やかで、しかし何かを諦めているようにも見えた。

 転校する前の話を聞いたことがなく、璃星が人と交わろうとしないのはそこに理由があるのだろうかと勉は思った。

 

「あんな寂しい場所に行きたいのかよ」

 

「そうね、いつか行ってみたい。

行きたい場所を自分で自由に決められるようになったら。

早くその時がくればいいのに……」

 

 懇願するような力のないか細い声に驚いたのは勉だけでなく璃星自身でもあったようで、ハッと我に返った璃星は勢いよく立ち上がった。

 

「この場所のことは秘密よ。

誰にもばれないようにしてよね」

 

 言い捨てて素早く階段を降りて行く璃星の後ろ姿を見送っていた勉だが、午後の授業のチャイムが鳴ると慌てて璃星のあとを追うように階段を駆け降りて行った。

 

 それ以来屋上の一角は勉と璃星の秘密の場所となり、昼休みや放課後の少しの時間を二人で過ごすようになった。

 二人で何をするわけでもなくただ寝そべって空をぼんやりと眺めたり、本を読んだりと各々の時間を過ごすだけなのだが、その空間は勉にとってとても心地良いものだった。

 璃星を纏うレモンの匂いが清々しく勉の心を穏やかにしてくれて、そしてこの上なくときめかせてくれる。

 いつものように屋上へ来た勉が扉をそっと開けると、そこには璃星の姿はなかった。

 教室にもいなかったし今日は委員会もない。

 しばらく待ってみたがどうも来そうにない気がして、勉はズボンについた埃をパンパンと叩いて立ち上がった。

 気まぐれで今日は気分が乗らなかったのかもしれない。

 急用があってまっすぐ家に帰ったのかもしれない。

 放課後をここで一緒に過ごすことを別に約束しているわけではないのだ。

 だから別に璃星が来なくても構わない。

 しかし勉の心はチリッと痛んだ。

 風が勉の傍をふわりと通り過ぎてゆく。

 いつもなら風はレモンの匂いを纏っているのにと、勉は小さくため息をついて扉をそっと閉めた。

 

 それから数日、璃星は学校を休んだ。

 風邪をひいたがたいしたことはないらしい。

 終業式の日は3日後、それまで良くなるといいけどと思いながら、勉は図書室で借りた『世界の旅人』を高揚した気分で鞄にしまう。

 くっつき合っていて気がつかなかった最後の1ページをゆっくりと剥がした、その中にあったもの。

 

……星!

 

 ラス・バルデナス・レアレスの空に広がる満天の星。

 まるで世界が終わってしまったあとのどこかの惑星みたいな、この荒涼とした砂漠の夜空が無数の煌めく星々で覆われているなんて!

 しばらくそのページから目を離せずにいた勉は、ふと璃星はこの星空を知っているのだろうかと思った。

 どこまでも続く砂の惑星の上に、こんなにも美しい星空が煌めくことを知っているのだろうか。

 

ーーあいつに教えてやらなきゃ……!

 

 璃星は体調不良というままで、結局終業式の日も姿を見せなかった。

 小賀谷にそれとなく璃星の様子を訊ねてみたが、例の間伸びした声で家族から体調不良だと連絡があったとしか言わない。

 璃星の家も知らないし連絡先も知らない。

 このまま二学期が始まるまで待つのは辛すぎた。

 あの星空のことを璃星に教えたかった。

 璃星がそのことを知ればあの絶望したような瞳の暗さが払拭されるような気がするのだ。

 これからシュンやリョウは舞衣たち女子とカラオケに行くらしい。

 夏休みは受験に向けて塾通いの毎日になるからと、終業式のこの日くらいは思いきり騒ぎたいらしかった。

 ベンも行こうぜと誘われたけれど勉は騒ぐ気にもなれず、用があるから悪いなと断りそそくさと教室を出た。

 駐輪場の自転車のカゴに鞄を放り投げて空を見ると、青空の端に灰色の雲が色を濃く染めながらじわじわと広がり始めていた。

 今夜は雨かなと思い、鼻を大きく膨らませながら思いきりペダルを漕いだ。

 まだ雨の匂いは届いてはこない。

 

 

 勉の好きな場所は3つある。

 一つは自分の部屋。

 もう一つは璃星と過ごした屋上。

 そしてこの駅へと続く長い直線の歩道だ。

 一直線の道路を走る車はどれもスピードに乗って、その先にある陸橋めがけて気持ち良さそうに走り抜ける。

 その歩道には木で作られた柵が同じように一直線に並び、そこから見る朝陽や星空が勉は好きだった。

 目の前の空き地にはちょっとした草原が広がって、本で見たラス・バルデナス・レアレスの風景に少し似ているような気がした。

 机に置かれた地球儀をくるくると廻してみても、その荒涼とした砂漠地帯の名前は書かれていない。

 驚くほど丸くて海と緑が美しく、こんなにもたくさんの国がある地球。

 ラス・バルデナス・レアレスでなくても璃星と二人で行けるのならどんな国でもいい、それこそ地の果てと言われる場所にだって行けるのにと勉は思う。

 部屋に地球儀の廻るカラカラという音だけが静かに響き、その乾いた音を勉はただぼんやりと聞いていた。

 夜半から降り出した雨が止んだのを見計らって、勉はそっと家を出た。

 時計の針は4時を回ったところで、寝静まっている家族を起こさないように静かにドアを開ける。

 玄関から雨上がりのもわっとした空気が流れ込み、わけもなく高揚した気持ちのまま勉は夜に駆け出した。

 車道を走る車はほとんどなく、行儀良く並ぶ街灯が道路を艶やかに照らしていた。

 夜明け前の空はまだ暗く、雲の切れ間から星の煌めきが見え隠れするのを見上げながら、勉は駅へと続く歩道へと向かった。

 太陽が昇るとそこには長い柵の影が伸びて、車道に美しい市松模様が映るのだ。

 その市松模様を見るたびに勉の心は爽快感に満ち溢れていく。

 眠れずにいた勉はその美しい影を見たくなった。

 璃星が行きたいと言っていた、ラス・バルデナス・レアレスの雰囲気に少し似ている空間にいたかった。

 

「……璃星?」

 

 目の前に街灯の光に照らされて柵に座る璃星の姿をみつけた勉はヒュッと息を飲み、次の瞬間思わず叫んでいた。

 

「璃星!」

 

 その声に俯いていた璃星の顔がハッとしたように上を向き、そしてゆっくりと勉の方を振り返った。

 

「何してるんだよ、こんな時間に……」

 

「散歩」

 

「まだ4時過ぎだぞ?」

 

「早朝の散歩、気持ちいいじゃない」

 

「危ないだろ、こんな時間に一人で散歩なんて」

 

「あんたはどうなのよ。

何してるの?こんな時間にこんなところで」

 

「……散歩」

 

 なんだ、同じじゃないと小さく笑う璃星は少し寂しそうにみえた。

 どんなにぶっきらぼうな口調でも勉は璃星に会えたことが嬉しくて、真っ直ぐに前を見据える璃星の横顔に胸の鼓動が高鳴るのを抑えきれなかった。

 

「時々、ここに来るの」

 

 璃星は視線を外すことなくぽつりと呟いた。

 

「ママがお酒を飲む時はいつもこうしてここにいるの。

ママはお酒が好きなわけじゃないけれど、どうしても飲まなきゃならない夜があるんだって。

その時は一人にしてほしいって泣くの。

そのたびにこうして夜明けを待つ羽目になるんだけれど、引っ越した先に必ずシェルターみたいな場所がみつかるんだから不思議よね」

 

 璃星は勉の困惑した視線にまるで気がつかないように言葉を続ける。

 

「私、早く大人になりたい。

自由に生きられる場所を自分で決められる大人に早くなりたい」

 

 語尾を少しだけ震えさせながら璃星は力強く言い放ち、そっと天を見上げた。

 つられるように勉が空を見上げると、少しずつ薄れてきた漆黒の空に無数の星たちが煌めいている。

 璃星は泣いているのかもしれないと思い、勉はそのまま無言で空を見上げた。

 星の輝きを反射させるかのように、雨上がりの車道に街灯の灯りがキラキラと輝いて見えた。

 

「そうだ、おまえ知ってる?」

 

「何を?」

 

 訳がわからないといったような璃星の瞳にうっすらと涙のあとが見えるのを気がつかないふりのまま、勉はあの星空の話をし始めた。

 

「おまえが行きたいって言ってたラス・バルデナス・レアレスの星空、めちゃくちゃ綺麗なんだぜ」

 

「星空?

あんな岩だらけの砂漠の空がそんなに綺麗なわけ……」

 

 やっぱり知らなかったんだなと勉は小さく笑った。

 

「天の川がすごく綺麗に見えるんだ。

砂漠だって、いや、岩だらけの砂漠だからこそきっとどこの星空よりも綺麗に輝くんだと思う」

 

 真っ直ぐに向けられる勉の視線を璃星は静かに、でもしっかりと受け止めたようだった。

 荒涼とした砂漠地帯に降るように輝く満天の星空。

 

「今夜の星空もいつもより綺麗だけど、きっとこの何倍も何万倍も綺麗なんだろうな」

 

 あははと笑いながら柵に寄りかかって星空を見上げる勉をじっとみつめていた璃星は、ふっと口の端を上げて勢いよく柵から飛び降りた。

 レモンの匂いが勉を包むようにふわりと香る。

 

「うわ!

おまえ、危ないぞ!

気をつけろよ、ケガするぞ?」

 

 その勢いにびっくりした勉は璃星のとびきりの笑顔にぶつかって息を飲んだ。

 

ーーあぁ、やっぱり俺は璃星のこと……。

 

「そろそろ帰るわ。

もういい頃合いだろうから」

 

 恋人に振られたの、たぶん酔いつぶれて寝てるわと璃星は笑った。

 

「運命の人に出会うまで、ママは旅を続けるんだって。

いつもあたしはそのお供ってわけ」

 

 ふふふっと笑った璃星はもう寂しげな笑顔ではなかった。

 何かを吹っ切ったような、星の瞬きのように煌めく璃星の笑顔。

 

「みかみーー!」

 

 くるりと振り返った璃星の声が夜明けの空にこだまするように響いた。

 

「一緒に行かない?」

 

「どこへ?」

 

「ラス・バルデナス・レアレスの星空」

 

「え?」

 

「いつか、二人で」

 

 雨上がりの車道に反射した街灯の光が小さな粒となって、璃星の周りを包むようにキラキラと輝いて見えるのに勉は目を細めた。

 

「いつ行くんだよ」

 

「大人になったら」

 

「だから、いつだよ」

 

「うーんとね、今日は7月25日だから、そうね。

10年後の今日にしよう?」

 

「はあ?」

 

 勉は思わず素っ頓狂な声をあげて璃星を見た。

 

「おまえ、絶対忘れるだろ?」

 

「あんた、あたしの記憶力バカにしないでよね?

いい?10年後の今日、成田空港よ。

もう決めたんだから!」

 

 チケットはあんた持ちよ、と言いながら璃星は面白そうにふふふっと笑った。

 じゃあまたね!と道路に広がり始めた市松模様の影を掻き分けるように駆けていく璃星の背中を、勉は立ち尽くしたままいつまでも見送っていた。

 

 

 

 ガクンとした揺れで目を覚ました勉は窓から差し込む朝陽に思わず目を細めた。

 

ーーめちゃくちゃ懐かしい夢だったな……。

 

 バスはもう間もなく成田空港のターミナルへ滑り込もうとしていた。

 勉はもう一度ジャケットのポケットに航空チケットが入っているかを確かめる。

 ラス・バルデナス・レアレスの星空行きの二人分のチケット。

 璃星と会ったのはあの日が最後で、夏休みが明けると教室に璃星の姿はなかった。

 家庭の都合で急遽転校することになったニュースは璃星が転校してきた時同様に小さな中学校を駆け巡り、都会に出て芸能人になるのだとか、親が離婚して引っ越して行ったとか様々な噂が飛び交った。

 しかし日が経つにつれ璃星のいない空間は勉一人を除いて当たり前に馴染むようになっていき、そのうち璃星の名前を出す者はいなくなった。

 怒涛の受験シーズンを終えそれぞれが自分の道を歩き始め、勉も高校、大学、就職と環境が変わっていっても、あの日の璃星との約束は不思議なほど頭からずっと離れることはなかった。

 中学生の気まぐれな戯言なのかもしれない。

 寧ろ、そう思うことが自然なのかもしれない。

 

ーーでも、やっぱり俺は……。

 

 キュッと唇を一文字に結んだ勉のポケットで、スマホがブルブルッと小さく振動した。

 親友のシュンからで、気をつけて行ってこいよという文言のあとにいつもの長靴を履いたシュールな猫のスタンプが貼り付けられてあった。

 紆余曲折ありながら長年の愛を成就させて舞衣と結婚したばかりのシュンは、海外旅行へ出かける独身の勉に羨ましそうな視線を寄越しては舞衣にじろりと睨まれている。

 あの頃と変わらないなと苦笑いしながら、変わらないこの二人がいることに勉はひどく安心する。

 だから勉の中で璃星との約束は決して色褪せることなく、ずっとあの日のまま残っているのだ。

 それでもほんの一瞬の隙を見計らうかのように湧き出るためらいを、夜にはバーに変わる行きつけの喫茶店のオーナーがやんわりと打ち消してくれるのもありがたかった。

 

「10年前の約束が叶えられるって、もうドラマの世界だよな。

叶えられる可能性は限りなくゼロに近いのに、叶えたいって思う俺も大概おかしな男だな」

 

 アルコールが苦手な勉のためにオーナーが作ってくれた、ほんの少しブランデーを落としたコーヒーを飲みながら小さく笑う勉に、オーナーはふわりとした微笑みを投げてよこした。

 

「人生はドラマよ。

私たちは毎日、それぞれのドラマを生きているの。

だから10年前の約束を今も忘れずにいることなんて、何も特別なことじゃないわ」

 

 静かに微笑むオーナーの耳元にはダイヤモンドだろうか、小さなピアスがきらりと輝いている。

 カウンター後ろの大きな額に収まり、静かだが強烈な存在感を放つタロットカードの一枚らしい『運命の輪』という大きな絵が、ともすれば心揺らいでしまう勉の背中を力強く押してくれるような気がした。

 

「『運命の輪』は自分から廻そうとしない限り決して動くことはないのですって。

でも一度廻ったなら、それはその人をどこまでも運んでくれるそうよ」

 

 そう言ったオーナーの瞳は限りなく優しく、絵を描いた作者だろうか、絵の右隅に流れるように描かれた名前を愛おしそうに撫でた。

 人生はドラマ。

 この世界に生きる人の数だけ波瀾万丈のドラマが存在し、目の前のオーナーもそのドラマの中で日々一喜一憂してきたに違いない。

 そう思うと勉は自分にしか歩けない人生のドラマを思いきり駆け抜けてやろうと思った。

 

ーー人生で一度くらい思いっきり馬鹿みたいなこと、やってみてもいいよな!

 

 早朝の空港はまだ閑散としているものの、搭乗を待つ人々からはこれからそれぞれの目的地へと旅立つ喜びが湧き立っているように見えた。

 空いている椅子に腰を下ろすと、大きなガラスの向こうで準備中の飛行機が朝陽を浴びてキラキラと輝き、空に舞う瞬間を今か今かと待っているようだった。

 時間が経つにつれロビーに増えていく人の中に、15歳の璃星の面影を讃えた姿がないか勉は目で追った。

 10年の月日がどれだけ深い年月なのかさっぱり検討はつかないが、きっと璃星を見つけられるという自信が勉にはあった。

 璃星がここに来てくれさえすれば、迷わず探し出せる自信。

 少しずつ朝陽が昇り始め、勉が願いを込めて取った飛行機の搭乗時間が刻一刻と近づいてきた。

 焦る心を鎮めようとそれこそ目を皿のようにして璃星の姿を探していた勉だが、そういえば今朝寝坊して飲まず食わずで慌てて出てきたことを思い出し、そう思った途端急に喉が渇いてきた。

 逸る鼓動を落ち着かせるためにも水でも買ってこようと立ち上がった時、ふいに懐かしい匂いが勉の鼻先をかすめた。

 あの夏の日々、いつも屋上で自分を包んでいたレモンの匂い。

 一瞬にして15歳の自分に戻った勉は身体が硬直したように動かない。

 背後から少しずつ大きくなる足音は間違いなく自分の方へ近づいているのがわかり、と同時に爽やかなレモンの匂いもまた確実に勉を包み込むように鮮烈に香っている。

 足音は勉の後ろでぴたりと止み、ふふふっと小さく笑う声はあの頃のままで勉を一瞬で10年前へと誘ってゆく。

 

ーー遅いぞ、ずいぶん待ったんだからな。

 

 振り向いたそこにある、きっとあの頃と変わらないだろう笑顔にそう言ったらなんて答えるだろう。

 相変わらず勝ち気な物言いで女の子は待たせる生き物なのよ、なんてことを言うのだろうか。

 喜びに高鳴る鼓動を確かめながらゆっくりと振り返った勉は、腕の中に勢いよく飛び込んでくるレモンの風を思いきり抱きしめた。

 

 

                    完

 

 

 

 

 

大好きな米津玄師さんの『雨の街路に夜光蟲』という曲を聴いていて、ふっと降りてきた物語を書いてみました。

勉と璃星、二人の『運命の輪』はそれぞれの想いによって動き始め、その未来が前途洋洋であることを願いながら書き終えたまーたるです(●´ω`●)

人生はドラマ。

自分にしか歩けない自分だけのドラマ、『運命の輪』を廻して自分らしく進みたい、そう思いました。

以前書いた小説の中でも大好きな登場人物・凛子をチラッと登場させてみました(о´∀`о)エヘヘ

そして読み返してみると米津さんを随所に感じられる作品になってるなぁ(*≧∀≦*)❤️

 

 

最後まで読んでくださりありがとうございます

(●´ω`●)✨❤️