深夜に飲むミルクはぬるめがいい。
熱すぎると萎れた心がさらにダメージを浴びて動けなくなるし、かといって冷たすぎても沈んだ心がさらに凍えて動かなくなる。
どちらにしても心が動かなくなるという点では同じなので、ならば間をとってぬるめのミルクでノロノロな動作でも常に動けるようにしていたいと思う千弦(ちづる)であった。
電気も付けず真っ暗なキッチンは決まってよそよそしい。
残暑が過ぎ、秋風が冷たく感じるようになるとなおさらだ。
小さなミルクパンの中で少しずつ温まっていくミルクの泡を千弦は注意深くみつめていた。
カップ一杯分のミルクはほんの少し目を離しただけで、すぐに夥しい泡を噴き上げながら沸騰してしまう。
ーーまるで奏太みたい…。
千弦はついさっきまで会っていた恋人を想い目を閉じる。
正確には元恋人になる奏太。
一週間だ。
忙しかった仕事になんとか区切りをつけ、一週間ぶりのデートでのまさに青天の霹靂。
「…ごめん。
別れてくれないか?」
苦しそうに言う奏太の大きな手が膝の上できつく握りしめられているのを見ながら、飛び出したその言葉を千弦はどこか他人事のようにぼんやりと聞いていた。
「好きな人がいるんだ。
この先ずっと一緒にいたいと思ってる」
力強く言い切った奏太の視線がまっすぐに自分に向けられているのを見て、千弦はそれがようやく自分の身に起こっている現実の出来事なのだと思った。
そしてその刹那、足の爪先からぞわぞわとした感覚が這い上がると身体が小刻みに震え始めた。
夜になるとバーになるこの喫茶店は千弦のお気に入りで、先週末に二人で来た時はたしか二人の将来について話をしたはずではなかったか?
甘い恋人たちのひと時を心ゆくまで楽しんだのは夢だったのか?
「急で、ごめん…」
奏太は視線を膝に落として小さく呟いた。
「一目惚れなんだ、俺の。
彼女と一緒にいたいって、なんていうか、雷に打たれたっていうか、その、とにかく…。
運命だと思ったんだ」
真っ直ぐに向けられた奏太の視線をその時の自分はどう受け止めていたのだろうと思い、千弦はふっと笑った。
真顔だったのか驚いていたのか怒っていたのか、悲しんでいたのか。
ただあの時の奏太の表情は負けるもんかというように、唇を一文字にきつく結んでいた子どものような表情をしていた。
奏太と出会い付き合い始めて四年、お互い忙しくしている中でも絆を深めたしかな愛情で繋がっていたことは、今も疑う余地はない。
おそらく奏太は今でも自分のことを嫌いではないのだろうと千弦は思う。
良いことも悪いこともあった四年間、ともに紡いできた二人の想い出はたしかにあって、その想い出に屈するものかと言わんばかりの奏太の表情は寧ろ痛々しくも見えた。
「四年間が、たった一週間でなかったことになるのね」
千弦は自分の声があまりにも冷たく耳に届いたことに驚いた。
奏太は一瞬怯えたように肩を震わせる。
怒り、悲しみというような言葉では簡単に表せない感情に誰よりも千弦が戸惑っているのを、まるで自分が別れを告げられているかのように苦しげに眉をひそめる奏太にはきっとわかるまい。
「彼女はこの間新しく入社してきた人でとてもよく笑って…」
「もういいわ」
「千弦」
「あなたにとっての一番が私ではなくなったってことなのよね。
だったら私たちはもう一緒にいる意味がないって、そういうことなのよね」
「恋なんだ、たぶん、初めての」
奏太はうっとりしたように視線を空に向けた。
おそらくその先には奏太が恋する自分が知らない女の姿が浮かんでいるのだろう。
恋する男には自分が今どんなに残酷なことを言っているのかなんてわかってはいない。
これから置き去りにされる女のことなど眼中にない。
奏太の心はすでに自分から離れて、新たな恋の喜びに満ち溢れているのだから。
別れを口にした途端、奏太の中ですでに自分はもう『過去の恋人』になってしまっているのだ。
千弦の中に奏太への想いが未だ深くあるにしても、すでに遠く離れてしまった心の距離を取り戻すことはできない。
それを確信できるような晴れ晴れとした奏太の表情に、千弦の心は凪のように静まり返っていく。
「千弦と過ごした四年間、絶対に忘れないから。
本当にありがとう」
奏太は立ち上がり深々と頭を下げると、テーブルの上の伝票を掴んでカウンターへ向かった。
千弦へのひとかけらの憐憫も含まれない奏太の声は、新しい恋に心を踊らせているように明るく響いた。
それがあまりにも正直で千弦は思わず苦笑いを浮かべながら、嬉々として駆け出して行く奏太の後ろ姿を黙ってみつめた。
目の前にある手付かずのコーヒーカップからはすでに温かな湯気は消えている。
千弦は徐にカップを取ると、仰るように一気に飲み干した。
ぬるくなったコーヒーは苦味を増しながら喉を勢いよく滑り降りていく。
「よかったらどうぞ」
飲み干したあと空になったカップの底をぼんやりとみつめていた千弦がハッと顔を上げると、店のオーナーが優しく微笑みながら銀の小皿をテーブルに置いた。
一口大の小さな焼き菓子が二つ乗っかっている。
「ごめんなさい、騒がしくしてしまったかしら」
千弦が肩を竦めながら謝ると、オーナーはゆっくりと首を横に振る。
艶やかな黒髪のショートヘアからダイヤモンドなのだろうか、ピアスの美しい光がゆらゆらと煌いて見えた。
「恋はいつか醒める夢。
愛は永遠に醒めぬ夢。
人を想うことは夢を見ることと同じよ。
良くも悪くもね。
夢は醒めてもまた見ることができるわ。
そしてそれを繰り返すうちに、いつか必ず醒めない夢に辿り着くものなのよ」
オーナーは静かに言い、ごゆっくりと微笑んでカウンターへ戻って行った。
ミルクパンの中で泡立ち始めたミルクをマグカップに移し、そっとミルクをひと啜りすると、熱くもなく冷たすぎもしない程よい温度のミルクに千弦はホッとして息を着いた。
ーー恋はいつか醒める夢。
愛は永遠に醒めぬ夢。
繰り返し見るうちにいつか醒めぬ夢に辿り着く…か。
オーナーの言葉を胸の中で繰り返しながらミルクをゆっくりと喉へ滑らせると、千弦の心を覆っていた膜のようなものが晴れていくのを感じた。
「あ、ミルクの膜」
表面に薄っすらと浮かぶ膜を小指ですくい残ったミルクを飲み干すと、何か吹っ切れたようにスッキリした気持ちになった。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが優しく広がるベッドへ潜り込むと、薄い掛け布団のあたたかさが千弦を包んだ。
今夜からまた新しい夢を見ていつか辿り着く醒めない夢へ想いを馳せながら、千弦はゆっくりと目を閉じていくのだった。
完
自分が思う『恋』と『愛』ってなんだろうな〜と考えていたとき、ふっと降りてきた物語を書いてみました😚📝✨
楽しんでいただけたら幸いです❤️
最後まで読んでくださりありがとうございます❗️