まーたる文庫。

まーたるの小説・エッセイブログ🖋✨💕

『天眼の子』

 蒼き龍の国の国境を密かに越えてから、今日で幾つの朝を迎えたのだろう。

 朱ノ夜は深い藍色の空の向こうに薄っすらと太陽の光を滲ませ始めた地平線を、瞬きもせずみつめながらゆっくりと深呼吸をした。

 大樹の下で静かな寝息をたてて眠る龍砂王の目を覚さないように最新の注意を払いながら、太い枝に手を伸ばすとするするっと軽やかに樹々を駆け登り、あっという間に天辺に辿り着いた。

 見はるかす地上に次第に光が差し始め、辺りの様子が明らかになってくると、ここはすでに黄土国の領土内なのだと朱ノ夜は思った。

 黄土国は蒼き龍の国の東にあり、隙あらば侵略しようと常に虎視眈々と狙っている。

 千年前の天眼の子の出現の際には国王が暗殺されたという大国で、その国土は広大で豊かな資源に恵まれてはいるものの、周辺国からの黄土国の評判は芳しくない。

 千年前暗殺された国王の代わりに玉座に就いた新王は、天眼の子を手に入れることもできず、ただいたずらに国力を削いだだけで、国を崩壊寸前まで追いやった暗愚の王であった。

 なんとか国は存続したものの暗愚の王はその後発狂して命を断つという末路を迎え、現在は未だその狂王の子孫がこの国を支配しているという。

 朱ノ夜が天眼の子の居場所を考えあぐねてふと東を向いた時、首から下げている夏虫の勾玉の首飾りが異様に重くなった。

 これは何かの知らせなのかもしれぬと、東へ向けて密かに馬を駆けさせてきた朱ノ夜と龍砂王の二人であった。

 眼下に広がる広大な地には民が暮らす家々が小さくひしめき合い、遥か向こうには肉眼でもわかるほどの大きさの王宮を見ることができた。

 まずは市中に忍び入り国内の様子と天眼の子の行方のかけらでもいい、何か情報を手に入れたいと朱ノ夜は思った。

 そのとき風がふわりと大きく吹いて、朱ノ夜は慌てて樹々の間を滑り降りた。

 

「国王陛下」

 

 目覚めた龍砂王の足元に膝まづき朱ノ夜は頭を垂れた。

 やつれた旅装束に身を包んでいるとはいえ、龍砂王からは隠しきれない高貴なオーラが溢れている。

 涼やかな目元を綻ばせながら龍砂王は静かに笑った。

 

「国王陛下の御傍を離れてしまい申し訳ございませぬ」

 

 辺りの様子を伺うとはいえ国王を一人きりにしてしまったことを心から詫びる朱ノ夜に、龍砂王は鷹揚に微笑みかけた。

 

「朱ノ夜。

我々は天眼の子を手に入れるべく隠密に国々を旅している。

そうだな?」

 

「仰せの通りにございます」

 

「私もそなたも決して身分を知られてはならぬ」

 

「仰せの通りにございます」

 

「ならば今、この瞬間から私は王ではない。

ただの旅人、そなたの友だ」

 

 朱ノ夜はギョッとして顔を上げ、朗らかに笑う龍砂王をまじまじとみつめた。

 艶やかな黒髪が風に靡き、涼やかな目元に浮かぶ笑みには深い慈愛が込められている。

 民を想い国を想う善王と称えられる龍砂王の、一点の曇りもない心が映し出されているような澄んだ瞳であった。

 

「天眼の子を連れ国へ戻るまで、そなたは私が王であることを忘れよ」

 

「国王陛下…」

 

 蒼き龍の守護する国に君臨し、民にとっては神にも等しい王を友と思うことは不敬すぎるほど不敬ではあるが、善王の誉高い龍砂王の名は諸国の知るところでもある。

 身分を知られて龍砂王を危険に晒すことだけはなんとしても避けねばならないこの旅路にあって、王と臣下という繋がりはいったん自分の中から消し去らねばならないと朱ノ夜は唇を噛んだ。

 

「今から私のことを国王と呼んではならぬ」

 

「では、私はなんとお呼びすれば…」

 

「ーー月白」

 

「つきしろ…?」

 

「この色が好きなのだ。

私に相応しい、薄い青を帯びた月の光…」

 

 眩いほどの太陽の光こそ威風堂々とした龍砂王に相応しいと思う朱ノ夜だけに、龍砂王の言葉は意外すぎるものであった。

 朱ノ夜は初めて龍砂王に目通りを許された十年前のあの日のことを思い出していた。

 大巫女端白女の後継者としての挨拶を奏上すべく、即位したばかりの若き新王の御前に出た時、世の中にこれほど光り輝くオーラを纏う人間がいるのかと思わず息を飲んだ。

 隣では端白女も同じように息を飲んでおり、新王の圧倒的なオーラはまるで太陽の光のように眩しかった。

 その瞬間にこの王は蒼き龍の国にとってこの上ない繁栄とともに、揺るがない平和の御代に導く賢者であると確信した朱ノ夜であった。

 それからの十年、朱ノ夜の確信通り蒼き龍の国は繁栄と平和に満ちた善の国として、混沌とした世界の中でも稀なる国となっている。

 

「民が一生懸命に働き、臣下たちが国を強く守り、星読ノ宮の巫女たちが国の安寧を日々神に祈ってくれているおかげだ。

私は何もしておらぬ。

ただ玉座に座っておるだけだ」

 

 そう言って朗らかに笑う龍砂王が君臨しているからこそ、この国は神の御加護を得て安寧の道をゆけるのだと朱ノ夜はしみじみと思う。

 慈愛に満ち曇りなき青天のように澄み切った心の龍砂王だから、この混沌として澱んだ世界から民を守り幸せに導くことができるのだ。

 そんな善王の傍で運命の旅路をゆく喜びを感じ、そう感じる自分を朱ノ夜は不思議に思いながら頬を紅潮させた。

 

 

「世界の一大事ゆえとはいえ、私はこれから新たな名になるのだな」

 

 少し寂しそうに、それでいて感慨深そうに龍砂王は呟いた。

 蒼き龍の国の王の名前には代々『龍』の文字が入っており、『龍砂』という御名は父である先王から贈られた、王にとっては大切な名前である。

 孝行心の厚い龍砂王にとって親から贈られた大切な名前を、期間限定とはいえ変えてしまうことに耐えられない思いがきっとあるに違いない。

 しばらく想いを馳せるように空を見上げていたが、やがて何かを吹っ切ったように晴れやかな表情になった。

 

「今から私は月白だ、よいな」

 

 そう言って朱ノ夜に悪戯な笑みを寄越し出立の準備に取り掛かる龍砂王、いや月白の後を朱ノ夜は慌てて追いかけていった。

 

 

 龍砂王と大巫女朱ノ夜が千年ぶりに誕生する天眼の子を手に入れるべく、二人連れ立って極秘に出国してから数週間が過ぎた。

 蒼き龍の国では特別変化はみられず、民たちの暮らしもいたって平穏なものであった。

 国王と国を護る星読ノ宮の大巫女の不在は徹底的に隠されていたし、そのことを知るのは留守を託された王妃と騎士団の長である蒼珠、国王付きの女官長淡藤、そして星読ノ宮の巫女たちだけである。

 臣下と話す際には御簾を下ろし影武者となった蒼珠が龍砂王の代わりを粛々とこなしており、元々姿形、声質までもが似ているものだから不審に思う者もいなかった。

 仮にあったとしても天眼の子の誕生という一大事、国王の心身の疲労も相当なものなのだから、声のトーンもこれまでと同じように穏やかなものであるわけはないという思いが臣下たちの中にある。

 そもそもそんな一大事にあって、まさか国王と星読ノ宮の大巫女という二つの国の支柱が、連れ立って国を出ているなどという考えには及ぶまい。

 

「お疲れ様でした」

 

 奥宮へ戻った蒼珠を王妃は嫋やかに出迎えた。

 扉が閉められるや否や王妃の前に蒼珠は膝まづく。

 影武者として王宮にいる以上、かりそめにも王妃と同じ部屋で過ごさねばならないこともあるが、二人きりになった時は今まで以上に王妃へ恭しく接している蒼珠である。

 龍砂王は側室を持たず傍に置く女は王妃一人。

 龍砂王を陰日向で支え、国王同様に国中の民から慕われている美しく聡明な王妃だ。 

 黒曜石のような瞳が美しい王妃にみつめられると、男女問わず胸に甘美な想いが湧き上がってくるような、そんな不思議な魅力が溢れている。

 

「蒼珠、ここには私しかおりませぬ。

ただでさえ国王陛下の身代わりとして神経をすり減らしているのですから、せめてここでは肩の力を抜きなさい」

 

「身に余るお言葉にございます」

 

「こちらへ参りお茶でもお飲みなさい」

 

「私は国王陛下の忠実なる臣下、いかなる理由であれ国王陛下の不在時にこれ以上王妃様の御傍近く参ることは許されませぬ」

 

 顔色ひとつ変えず首を垂れる蒼珠をみつめていた王妃は、フッと息を漏らし仕方ないというように笑みを浮かべた。

 

「そなたは昔と少しも変わりませんね」

 

 王妃は甘い湯気を立てる茶器を蒼珠の前に置きながら呟いた。

 

「私が王宮に入ってからもう十年、そなたとも十年の付き合いになりますが、そなたも国王陛下もあの頃のまままるで変わらぬ。

変わったのはこの私くらいでしょうか…」

 

「王妃様は何一つ変わってはおりませぬ。

国王陛下に嫁がれたあの日のまま、お美しく聡明な我が国が誇る王妃陛下でございます」

 

 真っ直ぐな視線を寄越し力強く言い切る蒼珠を見て、王妃は少し眩しそうに目を細めた。

 甘い茶が胸の奥を滑り降りてゆくのを熱く感じながら、王妃は嫁いでからの今日までを振り返っていた。

 蒼き龍の国の中でも由緒ある名家に生まれ人よりも美しく聡明であった王妃は、早くから国王に嫁ぐ有力候補者の一人であった。

 父母は王妃を溺愛しどこへ出しても恥ずかしくないように徹底した教育を施し、王妃もまた父母の想いに応えるべく願いのその通りに成長した。

 代替わりで新たに即位した若き新王に嫁ぐことが決まった時、王妃は父母の願いを叶えることができた安堵感で一杯になった。

 父母、親族はもちろん国中が歓喜の中にあったが、しかし王妃自身はどこか他人事で、日が経つにつれ寧ろ鬱屈とした思いが心の中で渦を巻くように大きくなっていた。

 いくら聡明でも十二歳になったばかり、国を統べる国王の元に嫁ぐその責任の重さは日に日にそのか細い肩にずっしりとのしかかる。

 次第に大きくなってゆく不安を押し殺しながら王宮に入った王妃は、新王の力強くも優しい人柄に心から安堵したと同時に、以前とは違う責任を感じるようになり始めた。

 

「一日も早く御子を、お世継ぎのご誕生を!」

 

 王妃は嫋やかな笑みを浮かべる裏で、日増しに大きくなるその期待の声に敏感になっていった。

 一年、三年が過ぎても一向に身ごもる気配はない。

 いたたまれず側室を持つように勧めても、王は首を縦には振らなかった。

 王の自分への愛情を感じて嬉しくもありがたく思う王妃であったが、時が経てば経つほど身ごもれない自分を責める気持ちばかりが膨れ上がる。

 そんな自分の気持ちをどうにもできず、あろうことか自分を想い労わる王の気持ちを鬱陶しく思うようになり始めていた。

 嫁いで十年を迎え未だ後継ぎの御子がいないまま、今回の天眼の子の誕生という世界の一大事が起こった。

 王自ら天眼の子を探す旅に出ると聞いた時、もしかしたら龍砂王は天眼の子をこの国の後継者にしようと考えているのかもしれないと王妃は思った。

 いつまでも子を授からないのは天眼の子がこの国を統べる運命なのではないか、この国が世界を安寧の道へ導く道標たる存在になるのではないか、と。

 

「今頃、国王陛下と朱ノ夜はどの辺りを進んでいるのでしょうね」

 

「東へ向かうと申されておりましたので今頃は黄土国へ入られたか、その近辺にいらっしゃるのではないかと」

 

「黄土国…」

 

 王妃は呟き、鳥籠の中で首を傾げる鸚鵡にそっと指を伸ばした。

 鸚鵡はすらりと細い王妃の指を軽く突いてみせ、クワァッと小さく鳴いた。

 龍砂王の傍に最強の大巫女と呼ばれる朱ノ夜がいることにこの上ない安心感を持ちながら、一方でチリッとした痛みにも似たざらついた感情を抱く王妃であった。

 異形とはいえ朱ノ夜の人離れした美しさを前に、あの時龍砂王が息を飲み食い入るようにみつめていたことを王妃は知っている。

 今龍砂王の瞳に映るのは自分ではなく朱ノ夜だ。

 

ーー天眼の子を探し出す大事な旅路とはいえ、万が一龍砂王と朱ノ夜が心を通わせたとしたら…。

 

 王妃はどうにもならない嫉妬の業火に身を焼かれるようで思わずギュッと目を閉じた時、鸚鵡の嘴が指に強く突き刺さった。

 

「あッ…!」

 

「真朱(ましゅ)様!」

 

 叫び声に素早く駆け寄った蒼珠に思いがけず名前を呼ばれた王妃は、ほんの少し呆気に取られた。

 久しく呼ばれなかった自分の名前。

 龍砂王でさえ呼ぶことのほとんどない、自分の名前。

 王宮に入ったばかりの頃、蒼珠はこうしていつも名前を呼んでくれていたっけ。

 そうだ、自分にも名前はあったのだと当たり前のことを思い出し、澱んでいた心を覆っていた霧がサアッと晴れてゆくのを感じた。

 

「これは、とんだ失礼を…!」

 

 慌てて後ろへ退こうとする蒼珠の手を王妃は握りしめた。

 

「蒼珠、私の名前を…」

 

「王妃様の尊き御名、思わず口走ってしまい申し訳ございませぬ!

咄嗟に口走ってしまったこと、何卒お許しください!」

 

「…もう一度」

 

「……。」

 

「呼んでくれませぬか、私の名を」

 

 呆けたように呟きながら、それでも瞳に生き生きとした光が蘇ってきた王妃を前に、蒼珠は心が不思議と痺れたようになった。

 

「真朱様」

 

 王や民の信頼厚い蒼き龍の国の王妃ではない、ただの一人の女としての自分が蘇り、王妃は思わず蒼珠の胸の中に飛び込んだ。

 

ーー真朱、そうだ、私の名前は、真朱…。

 

 

 本来の自分を取り戻し熱い気持ちが迸るかのように、王妃の真っ白な指から真紅の血が一筋流れ落ちていくのだった。

 

 

                   完

 

 

 

『天眼の子』第3話です。

 

ご覧くださりありがとうございます❗️

 

「名前」というテーマがポンッて浮かんできたので書いてみました。

 

この先の旅路、どうしていこうかな。

 

考えるの楽しすぎる❗️ヽ(*^ω^*)ノ✨

 

楽しみながら書き進めていきます(о´∀`о)

 

また読んでいただけたら嬉しいです(●´ω`●)

 

ありがとうございます✨